カテゴリ:アル中以前( 22 )

新年明けましておめでとうございます。

本年もl当ブログをご覧いただきありがとうございます。

さて本年最初は、去年から書く書くと言っていたアルコール依存症に向けての最終章です。

23歳ころぐらいにはすでに私はアルコール依存症になっていたのではないかということはすでにお話しいたしました。今現在、当時の記憶からアルコール依存症スクリーニングテストを試してみますと、完全にアルコール依存症になっていたことがわかります。

ただ当時は自分自身がアルコール依存症であるとは考えもしませんでした。アルコール依存症という言葉すら知らなかったのかもしれません。

ただ自分自身がおかしくなってしまったことは感じていました。
またこれもお話しいたしましたが、私には友人と言える人間が誰もいないまま、東京に一人で暮らしていました。

誰にも相談できず私は途方に暮れておりました。
そこでなんとかならないものかとD・カーネギーの「道は開ける」などの本を読み漁っていました(司法試験に合格し、神戸に帰る際、それらの書物のうち気に入っていたものを段ボール一箱に詰め込んだのですが、どこに行ったのか分りませんので詳しい書名等はここでは書けません)。

しかしいくら本を読んでも、一人ぽっちのアル中がどうしていいかはわかりません。
ただ私にできることは本を読むことぐらいだったのです。

ある時、朝から落ち込んで、散歩を兼ねて、青山ブックセンターの六本木支店まで歩いて行き、仏教関係者の書いたその手の本を買ったことがあります。朝一番の客がそんな本を買ったのが不思議だったのでしょう。レジのおばさんにじろじろと様子を見られました。

24歳ころであったのは記憶にあるのですが、この頃は、ローマの五賢帝の一人であるマルクス・アウレリウスの書いた自省録を気に入った文書に線を引きながら読んでいたことを覚えています。

でもそんなことをしても何の解決にもなりません。

24歳の時の冬、散歩で皇居周辺を歩いていた時、冷たい風がさっと吹き抜けたことがあります。私はその時、確かに、風が自分の胸の中を吹き抜けたのを感じました。私の胸は空洞だったのです。

またビールを飲みながら、自己憐憫にふけり、涙していたこともありました。そのとき、自分の口が意図しないのに、パクッと開いてしまう現象に見舞われました。何なんだろうと不思議に思っていましたが、2,3度続けて口がパクッとあいてしまうのです。しばらくして分りました。私は口をあけてわんわんと泣こうとしていたのです。でも子供のころと違って口をあけて泣くことはもはやできなくなっており、口だけが無意識にパクッとあいていたのです。

大学を辞める決心はつかず、授業には出るようになっていました、朝、住居から、聖坂を下って三田キャンパスに向かう途中、くじけそうになる想いに対して、私は、このまま倒れることがあっても自分は前向き気倒れてやると思い、足を運んでいました。

あれからすでにもう24年が経ちました。
今も私は、倒れるのなら前向きに倒れてやろうと思っています。
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前回、三田時代、朝起きると頭が締め付けられる感がし、それが夜再びビールを飲むまで続くようになったと述べたが、横山やすしが生前、ある知人に「俺は缶ビール一杯でも翌朝酒が残るねん」とこぼし、相談を受けた人が、それだけ師匠の肝臓がいかれてんねんと答えているのをテレビで見たが、私が思うに、それは肝臓の問題ではなく脳の問題だと思う。

横山やすしはよくぐてんぐてんになってテレビに出ているのを何度となく見たが、もう先は長くないなと思ってみていたものである。

私が初期のアルコール依存症になったのは何歳ころであるかということであるが、24歳のときには、もうおかしくなっていたという記憶があるので、23歳ころではないであろうかと思う。

とする19歳から毎日多量のビールを飲むようになって4年後ということになる。

自分の症状がもしかしたらアルコール依存症によるものではないかと思うようになったのは何時からかは、覚えていない。

しかし初期アルコール依存症になってから数年後には、自分がアル中ではないかということを疑い始めたようである。

それで本屋に行って病気に関する本が並んでいる棚から、アルコール依存症に関するものを抜き出しては、立ち読みするようになり始めた。

しかし病気の症状として、手が震えるなど、幻覚、幻聴が生ずるということは、書いてあったが、頭が締め付けれるようになって、イライラ感に襲われるという症状は、どの本にも書いていなかった。

また判定テストなども大抵の本に書いてあったと思うが、自分で判断しようとしても、仕事はしていなかったのでアルコールで仕事上の失敗したことがあるか、と書かれてあっても、そんなものはないと思ったし(本当は、授業に出なくなり、留年を繰り返していたということがまさしくこれに当たるのであるが)、ブラックアウトしたことがあるかという質問に対しても、確かにどうやって家に帰ったのか覚えていないという経験は、2,3度はあったが、そんなときは普段の何倍もの量を飲んだ時のことで、そういう状況下でブラックアウトすることはだれにでもあるものと思って、自分がそれに該当するとは思わなかった。そんなこんなで本屋でアルコール依存症に関する本を、何度も見つけ出して立ち読みすることはあっても、自分がアルコール依存症であるとは思わなかったのである。

現在のアルコール依存症に関する本が、私のような症状を、アルコール依存症に基づく離脱症状であると書いてあるかどうかは調べていないが、もし書いていないとしたらぜひとも書いていただきたいものである。
それが書かれていないと私のようにアルコール依存症であることを見過ごしてしまい、アルコール依存症が重度化する人はこれからも減らないと思う(もちろんこの病気は否認の病であるから、少々のことでは自らがアルコール依存症であると認識し専門病院につながる人は少ないであろうが)。

私が、自分がもうアルコール依存症以外の何物ではないと自己診断したのは、病状が悪化し、連続飲酒発作に襲われた時のことである。
時すでにもう遅しという状態になってからであった。残念である。
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昨日はなぜか疲れ切っていたが、一晩ぐっすり寝たら、頭がすっきりした。
今処方されている眠剤は私に合っているようである。
また朝方気持ちがいいということは、私はうつではないということであろう。

ところで、多分に三田に引っ越した後のことであるが、私は、朝起きた時に違和感を感じるようになった。何となく頭が重いような締め付けられるような感じが、朝起きた時からずっと続くのである。

私はてっきり二日酔いだと思い込んだ。
でもそれまで二日酔いの経験は何度もあるが、どんなひどい二日酔いでも、夕方まで寝ていると、治ってきていて、夜になると酒が恋しくなったものです。朝や昼間は、はきそうで天井がぐるぐる回る二日酔いの時など、朝、昼は、神様もう二度と酒など飲みません。早くこの状態から逃れさせてくださいという状態でもそれまでは夜頃には治っていたのであった。

ところがそう飲んだわけではないのに(と言ってもロング缶6本ぐらいのビールは飲んでいたが)、朝から何となく頭の具合がおかしいのである。

不思議に思って、ビールの量を減らしてみたが、朝起きると頭の締め付け感は残っている。
とうとうビール350ミリリットルの一缶にまで減らしたが、朝起きぬけの状態は変わらなかった。

私は不思議に思ったが、なんとなくそのままになっていた、散歩したり、授業に出たりするのに支障が生じるほどもことまではなかったからである。

しかし今から思うと、これは離脱症状であり、私はすでにこのころから初期の依存症にかかっていたのだと思う。

しかし当時の私は、アルコール依存症にかかりかけているなどとは思いもしなかった。
頭の締め付け感は厭であったが、夜のビールは欠かさなかった。

のちに詳しい話はするが、私は三田に住んだのち高田馬場に住むことになった。
この頃になるとさすがに酒をやめてみようという気になり、ビールを飲まない実験を続けたが頭の締め付け感は4,5日やめても残ったままであった。それで私は、私の場合、二日酔いではなく、三日酔い四日酔いといった具合だなと思っていた。

当時、これがアルコール依存症であるとわかっていたらと思うが、当時は気づきはしないままであった。
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三田に移ったというものの、私の生活自体は、変化はなかった。
大きく変わったのは、散歩のルートぐらいであった。
以前は祐天寺から代官山、中目黒を通って渋谷に行くくらいであったが、
三田に引っ越ししてからは、三田から桜田通を辿って、桜田門から皇居に入り、竹橋のあたりに出て、神保町界隈の本屋を散策することが増えた。
時間にして、往復5,6時間以上歩いていただろう。
もちろん渋谷にも明治通りを通って歩いていたが。

それと授業にもよく出ていははずである、専門学部3年生の時は、2単位を残すのみであったのだから(これは半年間毎週1度だけ授業に出たら単位がとれてしまう量ということである)、ごく普通の学生と同様授業には出ていたということであろう。

ただほかの学生と異なるのは、付き合う相手が全くいなくなってしまったことだ。私はもともと一人でいることが好きであったし、そこはそれ夜になれば、ビールをたっぷり飲んで読書にふけっていたからある程度それでストレスはおさまっていたはずである。

その当時の知り合いはわんこ一匹であった、ビールを買いにコンビニに行くと週の坂道で犬を飼っていたお宅があったのであるが、そのお宅の塀の一部、ちょうど人間の顔見とおせる部分にだけ、15センチ×20センチくらいの窓が開けてあり、わんこが塀の中から通る人を見られるようになっていた。私はその前を通るたび、わんこをなぜてやり、彼も私になついてくれていた。
このわんこが私のたった一人の友人だったのである。

しかしいつまでもこの生活が続けられるわけはないことも分かっていた。大学は卒業するつもりであったし単位も順調に集めていた。そうすると就職である。

父は小さな修理工場を所有していたが、それは同族会社間の争いで、その会社に追いやられていたみたいな感じであって、私が後を継げるというものではなかった。
事実、私が司法試験に合格する前、つぶされてしまい、父は行き場所を失っていた。
それでも父が私に仕送りができたのは、父が祖父から譲り受けた土地を売却したからである。
売却当時は、バブルの真っ最中であったので、結構な金額にはなったらしい。
父は、そのお金で持って、弟が経営する獣医士医院の土地を買ってやるとともに、現在私が住んでいる小さな建売住宅を買い、残りのお金の一部を使って、最後まで仕送りをしてくれていたのである。

ともかく私には行き場がなかった。それはどんな会社でもいいとなればあったのであろうが、ここまで浪人・留年を繰り返した男にまともな職場はない。ふつうは先輩のひきなどで就職先が決まるのであろうが、私には先輩はともかく相談する友人もなかった。

ビールだけを飲んで気楽に教養学部時代の4年間を過ごした私にも、そろそろ尻に火がつき始めたこと自体は実感するようになっていったのである。
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教養学部は裏表4年かかったが、専門学部は3年であった。しかも7年目は卒業に必要な科目は2単位しか残していなかった。
そこで今になって思うのであるが、専門学部時代はある程度まともに出席していたようである。
なぜ2単位が残ったのかこれも覚えていない。
なお私の名誉のために言っておくが、私が本気で授業を受けたうち、成績がAでなかったものはほとんどない。今でも成績表は取り寄せることができると思うが、全体としてみれば恥ずかしい成績ではなかった。

ところで専門学部に入って、さすがに親に迷惑をかけているのが気になり、いつだったか親父にもう大学を中退しようかと相談したことはある。

しかし父は首を振って、まだ行けとと言ってくれた。彼も私と同様アル中であるから私の気持ちは、分かっていたのかもしれない。

私が心身症で手が震えていた時、手が震えているのではないかと嬉しそうに言っていたこともある(その時はまだ断酒して手が震えるといった状況ではなかったが)。同じ病気にかかりつつあることは彼には分っていたのではないだろうか。

先走るが、私が司法試験を目指していた時、願懸けで1年間だけ彼は断酒した。

その後も私は司法試験浪人を続けたため、断酒は1年で終わってしまったが、私が同病であることは直感的に分っていたのであろう。
私が留年することについて直接の文句は一切なかった。
ただ私が読んだ多量の本を実家に送り続けていたため何をしているんだとこぼしたことが一回あるだけである。

もう私がアルコールに苦しみつつあるが、自分がアル中であることが分からなかったとき、酒を飲んでまともに生きれなくなっていた父に、酒は飲んではいいが、多少控えたらどうかと提案したことがある。その時彼は泣きそうな顔をして、私に対して、俺は酒を飲むか飲めへんかどちらかしかないねん。と苦しさを訴えてきた。

典型的なアル中である。それならそれで私にも伝えてほしかったと思うが、彼は自分がアル中であることは認められなかったのであろう。

法政大学を中退したことは知っているが、私の母と結婚するまでの彼のことについては聞いたことがない。

祖父が今は社名が変更されている三〇石油に勤めていた母を見染め、結婚の段取りをつけ、私が生まれたのである。

今日は本当は、私の授業を受ける態度を話すつもりであった。
でも違う方向へ向かったようである。

それぞれのことについてはまた別の機会に述べようと思う。
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1学年、2学年それぞれ裏表を返して計4年、私は慶応の教養学部にいた。
でも無事に?5年年目は専門学部に進むことができた。

当時何を考えていたかはどうしても思い出せない。

とりあえずキャンパスが日吉から三田に変わることになったので、引っ越しをすることにした。
別に引っ越しをしなければ通えない距離では全然ないが、本来卒業していくはずの下宿人がいつまでもいるのはおかしいし、私は通勤・通学距離はできるだけ短くしたい方針であったので(現在でも)三田キャンパスに歩いていける範囲の住処を探すこととしたのである。

そこで探しがした結果、三田から聖坂を登った所にある、鉄筋コンクリート作りであるが極めて小さくて小汚い住居を見つけ出した。
コンクリート作りにこだわったのは、もう隣の睦ごとを聞きたくなかったせいもある。

しかしそこも隣の住人はおかしかった。

私は隣近所などに引っ越しの挨拶などしなかったので顔は知らないのであるが、ある時、どうやって私の電話番号を知ったのか知らないが、夜、隣の住人です。今日は寒いですね。こんな夜は一緒になって寝たいですね。などという電話がかかってきた。私は余計寒気に襲われながら、けっ結構です。と言って必死になって断った。

私は女性にも持てないのであるが、全くもてなかったわけではない。しかしおかまさんにはもてないタイプであると断言できる。

それが一緒に寝ないかである。よく私のような人間に声をかけたものである。

しばらく私は、お隣の人と顔を合わせないようタイミングを見合わせて外出していた。
だって外で直に口説かれれば、落ちるかもしれないではないか。それは私の趣味ではなかったので慎重には慎重を期した。

そのうちその人は引っ越していったようである。次には夫婦者(籍は入っているかどうかは知らない)らしき男女が入居してきた。

この男女もここでは言えないようなことをしていたようである。が、しかしここでは省こう。
あまり私の生活に関係ないことであるし、ちょっと口に出しては言いたくないからである。

さてそろそろアルコール依存症に向けての章も終りに近づかづいてきた。
もうあと2、3回お付き合い願えれば、司法試験を目指しての章へと入れるかもしれない。

つづく
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さて、少々、回り道をしてしまいました。
でも酒びたりで人付き合いのない私の性的側面がどうなっていたのか気になる人もいるであろうし、私自身が一番気にしていた事項であったので、これを機会に打ち明けることをしたのです。
私の書き込みで気分を害された方には謝りたいと思う。

ついでに性的問題で、犯罪者となってしまった男性のことも書かせていただいた。
私自身も、もしかしたら、同様の問題に悩んでいたかもしれないことから、彼から話を聞いていて他人事ではなかったことと。弁護方針に大きく悩み、それを機会に連続飲酒の道を開いた事件であったからである。

さて原因はともあれ苦しんでいた心身症も一段落は付いた。

ところで私がアル中以前と考えているのは、浪人中から毎日ビールを飲んでいた時期から、慶應の教養課程にいた時代のことである。住所は祐天寺、キャンパスは日吉であった。

この5年間は少なくともまだアルコール依存症になっていなかったと思う。
確証はないが、まだ自分のアルコール摂取がおかしいとは思っていなかった。

留年を繰り返し、本来なら卒業する4年間が過ぎても、まだ教養課程にいること自体は、不自然であったが、私はまだそれほど真剣に悩んでいなかったと思う。

親がどう思っていたかはわからない。
母親はとにもかくにも私を信じるという態度であったし、父親はアル中であり、かつ法政大学を中退しているから、口出しをしにくかったのかもしれない。

私は両親に甘えながら、毎日酒を飲み、単位を取得するのに最小限の授業を出るという生活をしていた。

昼間は当時はよく歩いていた、歩いて東京中をさまよい、夜はビールを飲みながら本を読むという生活であった。

当時はまだ、司法試験を目指そうという気は全くなかった。
いったいどうして生きていくつもりであったのであろう。
今考えると複雑である。

つづく
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店内のカウンター席に座って、十分ほどもわけのわからない怒りに襲われていたであろうか。
怒りに怒っていたのであるが、やがて怒りも徐々に引いて行った。
それでふと気付いたのが、これまでの心身症の症状がすべて消え去っていたことである。
私は、怒りまくった後、さっぱりとした感情に満たされていた。

そこで私が思ったのは、また気を失うような感じに襲われた際には、怒ればいいのではないかということである。
それからも2、3度体が縛られるような感覚に襲われたのであるが、即、怒り始めると、ジーンとしたような感覚は消えてなくなった。
これで私は、自由になれた。ただ高血圧だけはそのままで、下90、上140ぐらいの血圧だけは、10年近くくらい残ったと思う。であるから健康診断の際には、いつも運動して痩せなさいと言われていた。

心身症の原因となった理由であるが、当時は私は友人関係をほとんどなくしており、親しいと言えるような友をもっていないまま、ただビールを飲むだけの生活であったこと。そうしたおり下宿の隣の部屋の住人が、女友達を毎晩のように連れ込み、薄い壁を通して、その挙動がわかってしまった。私も男である気持は穏やかではなかった。ただ女をつれこむなというわけにはいかない。くやしいおもいで過ごすしかなかった。

私には男性の友人もいないのに女友達なんかはとんでもない話であった。隣の部屋から喘ぎ声等が聞こえてくると、私は、ビールを飲んで、ラジカセをかけ無理やり寝込んでいた。

でも寝ても耳は聞いているし脳も深層心理では意識している。そのためストレスが溜まっていたのだろうと思う。それで心身症になったのであろう。ただパニックになりそうになると怒れば良いという解決策は私にとって福音であった。

なお私は小中高をとおして全くもてなかったわけではない。蓼食う虫も好き好きといういうではないか。私を好きになってくれる人もいたことはいた。ただ私は、億手でこちらから積極的に付き合うことはなかった。大学になってからもわざわざ神戸から私を訪ねてくれた女性もいるが、その他もろもろのことを考え合わせると、私に惚れていたのだと思う。

ただ私は、ビールに惚れていた。女よりビールだったのである。

でもさすがに20歳を超えると童貞では恥ずかしい。

私が童貞をなくしたのは次回以降書き込むことにする。

つづく
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必死の思いで悩んでいると、一人の男性が、トイレに入ってきたした。
わたしはしばらく迷ったが、こんなところにいつまでもいるわけにはいかない。
そこで勇気を出して、その男性が小水を終わったころを見計らって、助けを呼ぶこととした。

具体的に何を言ったのかまでは覚えていないが、助けてください。中で動けません。救急車を呼んでくださいということだったと思う。

その男性は親切な人で、待っていろと言い、救急車を呼びに行ってくれたようである。
私とは言うと、しばらくすると、体が何とか動かせるようになってきたので、ズボンをはき、トイレの外まで這うようにしてきて出てきて、トイレのドアの横にへたり込んだ。

近くのレストランの店員が、中に入って休んだらどうだというような身振りをしてくれたが、もう一方の店員がくびをふった。私としてもどんな病気か分らないので、もっともだと思った。

救急車をまったのはせいぜい10分程度のことであろう。
待っているうちに私の体調は落ち着いてきた。

救急車で病院に搬送されることになり、私は生れてはじめて救急車に乗った。運ばれた先は北青山病院であった。ベッドに寝かされ、点滴を打たれ、30分ほども安静にしていると、元の状態に戻って行った。そこでお金を支払い、病院を出ることとなった。病名は一過性の高血圧ということであった。

しかしこの症状はしばらくの間私を苦しめることとなった。ところかまわずジーンを体がしびれるようになり、また同じ状態になるのではないかと、絶えずびくびくしていたし、手は震える、ところ構わず便意を催す。高血圧状態が続く。等の症状が出たのである。いまでは心身症ではなかったかと思うが、当時はわけがわからず非常に不安であった。

いつもまた同じ状態になるのではないかと不安であり、不安感が解消されるのは帰神のため新幹線に乗る時ぐらいであった。新幹線の中なら、おかしくなれば乗務員の手助けを得て次の駅で救急車を準備してもらえるであろうし、突然便意を催してもトイレが確保されているからである。

この不安感から逃れられたのは私が青山通り沿いになる、定食屋に入ったときのことであった。
料理を注文して、しばらくすると、また体がジーンとしびれる感覚に襲われる予兆があり、私は、またかとおもいしょげてしまった。

しかしその時はそれだけでは済まなかった。私の体の奥から、惨めな自分に対する、怒りが噴き出てきたのである。それは理由もない怒りであった、自分のすべてが許せなくなり、やみくもな腹立ちが私の内部から、とどめようもなく沸き起こってきたのである。
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19歳から毎日ビールを飲み始めたことについてはすでに書いたが、大学に入ってその量は徐々に増え始め、毎日6本以上へとなっていった。

たぶん20歳か21歳にはその量に達していたはずである。

当時は、これも以前に書いたが、まだ目黒区祐天寺にいた時代である。
留年の結果、大学の教養課程にとどまっており、キャンパスは日吉であった。

酒を買うのは近所の酒屋であった。夕方になると酒屋でまずロング缶4本を買い、その後足りなくなると、自販機で追加のビールを買っていた。

下宿のすぐ目の前には、セブンイレブンがあったが、当時はコンビニ自体がまだ目新しく、酒を置いてあるコンビニはごくわずかであったと思う。セブンイレブンも本当に朝7時から夜11時までの営業であり24時間営業はしていなかったと思う。また自販機も夜11時以降朝5時まで販売停止とはなっていなかったはずである。

そこで4本で足りなくなると自販機でビールを追加購入し、翌朝まで飲んでいた。

アル中までのカウントダウンの状態である。
でも皆様もう少しお待ちあれ。
私はアル中になる前に、別な病気になってしまったのである。

大学に入ってから何年目かはもはや覚えていない。
でも祐天寺にいた時代であることは確かである。

その頃の私は、昼間は、歩いて渋谷まで行って本屋を覗いて、本を買って帰るという生活であった。
そうしたある日、私は渋谷の本屋が入っているビルの5階にいた。
突然、便意を催した私は、トイレに行った。
トイレに入って用を足した後、私は突如、異様な感覚に襲われた。
体全身がジーンといった感覚に見舞われ、動けなくなってしまったのである。

このとき私はパニックに陥ってしまった。
どうしよう。どうしたらいいのだろう。
助けを呼びたいが何といってもトイレの中でお尻を出した状態である。
第一トイレであるから、他に人がいなかった(そういう雰囲気であった)。

つづく
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スペルボーン(Spellborn)