カテゴリ:司法試験を目指して( 22 )

前回は、民法の試験のことを述べた。
民法では、最後は私が腹を立ててしまい、失敗したと思う。
成績は分らないが59点を付けられたかもしれない。

反対にうまく行ったのは、刑法と行政法であった。

刑法は、主査が私の知っている先生であり、その先生の学説でも論文式試験を書けるまでは勉強していた。だからうまくいって当然であった。
成績は分らないがもしかしたら61点を取れていたのかもしれない。
ただ今となっては何を聞かれたかをもはや覚えていない。

私が、これは61点を取ったと自信を持てるのは、行政法である。

主査がだれかはわからなかったが、おそらく学者であろう。
民法と同様、自説に受験生を誘導したかったようである。

問題のテーマは、行政行為の取消と撤回の相違点であった。

試験は、まず行政庁がうっかり18歳未満の者に普通乗用車の免許を与えてしまったらどうすべきかということから聞かれた。

そのあと行政事件訴訟法の定める行政行為の取り消しを求める以上の判決を要求できるか、言い換えれば、裁判所が行政に一定の行為を求めることができるかといういわゆる義務付け訴訟は、現行法上、認められるのかというジャブが来た。

私は、義務付け訴訟自体は、主要な争点ではないと考えたので、判例の結論に従い、義務付け訴訟は行政庁の第一次判断権をうばうので、できないと答えた。むろんここで相手が突っ込んでくれば、いつでもその説を翻して、義務付け訴訟OKという結論に乗り換えるつもりであった。

しかし試験官は、私の予想通り、判例の結論と理由で納得したようで、それ以上突っ込んでこなかった。

そして次に質問してきたのが、行政行為の取消と撤回の相違点であった。

細かなやり取りはもはやおぼえていないが、私は主査の誘導にうまく乗り、通説では2点違うところがあるとされているが、主査の考え通りであると1点しか違いがないという結論にうまく辿りつけた。

試験が終わるまでの時間は、14~5分であったと思う。

私がうまく結論にたどり着いたので、主査はにこにこ、副査もにこにこ、もちろん私もにこにことして試験終了と相成った。

私は、これは61点以上は確実であろうと思い、もしかしたらこれで民法の埋め合わせができたと喜び勇んで、三宿の試験会場を出た。

口述試験の結果、それはすなわち司法試験の合否の結果であるが、私は無事、口述試験を一回でパスできた。

(司法試験を目指してのカテゴリーはまだ続きます)
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昨日、口述試験でその内容を覚えているのは民法と行政法であったと述べたが、それは私が民法の口述試験を受けた時に失敗したと思い、反対に行政法では非常にうまく受け答えができこれで民法の失敗を取り戻せたと思ったからです。

民法では順番は試験の終わり付近で、私は相当な時間、三宿の研修所の中にとどまり続けた。口述試験では最初は大部屋で、試験が近づいてくると、別棟の1階の待合室に移される。
そこでは4,5名が待つこととなっており、更に次に試験を受けるとなると階上の廊下片隅のいすに座り、前の受験生の試験が終わり、自分の名前を呼ばれるのを待つのである。

民法では別棟に移されたとき、すでに日は沈みつつあり、薄暗く、薄寒いなかで、ドキドキとして自分の名が呼ばれるのを待っていた。もう日が暮れなずんだところ、私は階上の待合場所に移され、前の受験生の試験が終わるのを待っていた。

私は緊張の余り、胃壁がトロトロととろけ出していくのが分かるような状態であった。

やっと私の名前が呼ばれたとき私はほっとして試験室の内部に入った。
そこでまず聞かれたのは所有権の物権的効力の根拠とは、というものであった。

細かい説明はすべて省きますが、これに関しては私はさんざん考えた結果、請求認容権説を取ろうと考えており、その場でその旨を告げた。

すると主査が突如起こりだし始め、君はなぜそんな少数説を採るのかと一喝された。
訳もなく怒っている人間と議論のしようもないので、やむを得ず私は、自説を撤回し、通説・判例の行為請求権説に立つと自分の見解を改めた。

そうすると主査は、紙上に書かれた様々な事例を示し、私が立つといった見解では、どのような結論になるのか、その結論では妥当性を欠くのではないか、と私の主張に対して反論してきた。
私は、最初のうちは、そうですね。しかし通説・判例ではそうなります。と受け答えしていたのですが、次から次へ、通説・判例では不都合な結論となる事例を示し、私を責めるのです。

私は、最初はおびえてただただ論理的な結論はこうなると話するしかなかったのですが、主査が示す事例では私が当初主張した小数説ではすべて合理的な結論を導くことができるのです。そこで私はだんだん腹が立って来まして、主査に対して、私はこういう説を取ったのだからこうなるのはやむを得ないじゃないかと多少けんか腰になって主張しました。

こうなったら話は平行線です。試験が始まって20数分たったところで副査の先生がまあこのへんまでといわれて、民法の口述試験は終わりました。

試験が終わった直後は、少数説だからその見解がいけないなんて全く法律論議になっていない。とんでもない試験官だと思って興奮しておりましたが、その興奮もすぐに収まり、暗い夜道をとぼとぼ歩いて帰途に向かう途上では、あ~あ~、口述試験も今日までか、また来年も浪人かと思い、泣きそうな気になっておりました。

つづく
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口述試験とは、主査と副査の二人の試験官と相対して、それぞれ法律にかかわる事項のやり取りをし、質問事項に対して受験生が応答するという形式の試験である。

論文試験と異なり、自説を述べるだけでは足らず柔軟な対応が必要な試験である。

口述試験が一体いつ頃あったのかはもう記憶にないが、10月初めころであったと思う。

論文試験で合格発表が終わると私は予備校の面接試験に備えた講座を受けるとともに、口述の過去問が載った問題集を買いこみ、これまで勉強してこなかった分野を必死になって詰め込み始めた。

今は口述試験はどこで行われているか知らないが、私が受験していた当時は、三宿にある法務省の研修所で行われていた。

確か午前10時ころに受験生は集まり、受験の順番を抽選で決めた後、夜は5時半位まで、順番に試験を受けることとなっていた。

順番で有利なのは朝1番かそこらで受験するのと最後頃の受験が有利と言われていた。
朝一番が有利なのは、試験官の方で受験生の水準がつかめず、採点が比較的甘くなるとのことであり、最後頃が有利なのは試験官の方が疲れてきていてこれまた採点が比較的甘くなるということであった。

採点方法は、受験生の知識を調べて、最低点が57点、最高点は63点ということであった。

すべての科目に60点を取れば合格で、1科目で59点などを取ると他の科目で61点を取り、埋め合わせをしないと不合格になるという話であった。採点はほとんど60点であり、まったく何も受け答えできないと57点となり、それだけでまた来年ということになるということになり、反対に63点などという高得点はまずでないということであった。

私の試験科目は、憲法、民法、刑法、商法、刑事訴訟法、行政法とそれに教養科目として政治学であった。
教養科目はその年度で廃止であったし、私は少なくとも政治学科出身であるので、まあ政治学科で落とされることはあるまいと思っていた。

それぞれの科目でどんなやり取りをしたかは今となっては全てを覚えていないが、民法と行政法に関してははっきりと覚えている。

以下続く
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私は6回目の受験で司法試験に合格した。
早ければ、3、4年目で合格する人が多いので私は遅い方であろう。

でも最初の2年間は全く友人も情報源もなかったのだから、ある程度はしょうがないかと思う。

それでも大学留年を考えると親におんぶにだっこの生活であった。
引きこもらないだけが取り柄のプーターローであった。

6回目も短答式試験は盤石、論文式試験も各科目波がなく良くこなせたと思う。

論文試験の合格発表の際には、正直、何の感慨もなかった。あるべき名前があるべきところに書き込まれているという感じであった。

嬉しかったのは、実家に対する報告で、合格したといえたのが嬉しかった。

さて論文試験に合格すると最後に残るのは口述式試験である。

本来なら論文試験の発表の前に口述用の勉強を始めるべきなのであるが、例によって例の如く、私は、合格発表まで、何の勉強もせず、ビールを飲んでいた。

しかし論文式試験に合格したとなると商法総則とか論文式試験では出ないけど口述式資金では出る科目の勉強が必要である。

私はあわてて過去の口述式試験の問題集を買い、口述用の勉強を始めた。

つづく
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私の勉強は、もうマンネリになっていた、昼間は散歩、夜も発声練習をしながらの散歩か、ビールを飲んで本を読むかファミコンをする。その合間に答錬の進行に合わせて、ノートの作成、整理であった。

答錬での成績は良かった。今から考えても4年目には既にゆうゆうと合格範囲内に入る実力だったと思う。しかしそれで合格しないのが司法試験である。

私はいつの間にか司法試験5回目のチャレンジとなっていた。

5回目の試験であるが私は法律選択の行政法で失敗をしたと思った。その年の問題はいつもと違う傾向の問題が出たので、行政法2問中、1問は全く答えられなかったのである。

しかしその年は手形法で失敗していた。私は手形法は大得意でいつもは高得点をたたき出していたのであるが、司法試験の問題ということで張り切りすぎ、余計な事をふんだんに書いてしまっていたようである。その年の結果発表によると、行政法はAであったのに対して、商法はたしかEであった。全体としては500人以内の成績であったのかもしれなかったが、1科目の成績がE以下であるとそれだけで不合格であったのである。

4回目の合格発表の際、私は地下鉄を乗り間違えと以前書いたが、5回目の合格発表の際も、私は乗る地下鉄を間違えてしまった。前年度、間違えたので今年は間違えないぞと思っていたのに、やはり電車が動き出すと、違う方向に電車は走っていた。

この時の気持ちは表現できない。

ただここまできた以上諦めることはできなかった。
もう1年である。もちろんもう一度受験したからと言って合格できる保証はどこにもない。

明けない夜はない。夜は夜明け前がもっとも暗い。

そう言い聞かせて、気分転換のためにビールを飲む私がいた。
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高田馬場に住んで、司法試験浪人をしている時、わたしはいつ頃かは忘れましたが、自宅から歩いて20分程度の距離にある新宿区のスポーツセンターで泳ぐ習慣ができました。
そこは、夕方ともなれば、勤務帰りのサラリーマンで満杯になり、片道25メートルを泳ぐのも列をなして並ばねば泳げないという状況でしたが、私にはスポーツと言えば水泳ぐらいしかできないのでよく通っていたと思います。

そこでバックグラウンドミュージックとしてかかっていたのが、浪漫飛行でした。あまりに何度もこの曲を聞きましたのでメロディーは覚えてしまいました。

私はカラオケが苦手だったと以前書いたと思うのですが、歌えないあまりどの曲自体も最初から最後までメロディーを覚えている曲はなかったのですが、この曲だけは、自然と覚えてしまいました。
またカラオケを歌いたいがあまり、夜の散歩ではあ~、あ~と発声練習をしながら歩いていたことも話しましたが、長年、毎日、声を出していると音域は広がるものです。

ただ司法試験浪人時代にはマイクをもつと緊張するので、結局、高音部が出ず、うまく歌えないままでした。

しかし、司法試験に合格し、当時松戸市馬橋にあった寮暮らしを始めると、湯島での修習を終えたのちは毎日のように馬橋駅前の焼肉屋でビールやチュウハイを飲むようになり、その帰りには必ずと言ってよいほどカラオケボックスに行くようになりました。

カラオケボックスではやはり一人一曲は歌わざるをえません。

そこで私はメロディーを覚えている浪漫飛行を毎回のように歌ったのです。
最初は、仲間が私の歌を聴くと顔をしかめていたものですが、何度も歌っているうちに徐々に歌えるようになりました。それをきっかけにして私は他の曲にも手を出すようになりました。
そして歩いているときは大抵歌を歌っていました。
仲間は私と出掛けるとまた歌っていると揶揄しましたが、歌えるようになったこと自体がうれしくて私は耳を貸しませんでした。

そうして私は浪漫飛行をきっかけにしてカラオケが歌えるようになったので、浪漫飛行は私にとって特別な曲です。
ただ最近は何年も歌っていないので、へたくそになってしまってますが・・・

カラオケに関してはまた練習を始めます。それで痩せて私をお披露目できるようになった時は、目いっぱいカラオケを歌ってやろうと思っています。

カラオケの不得意な皆さん、大丈夫です。毎日のように練習すれば、音域も広がり自分の歌いたい歌が歌えるようになります。

いつか一緒に歌いましょう。
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司法試験受験4回目頃から私は焦りだしたと思う。

いくらなんでもプータローの期間が長すぎるし、普段の答錬の結果が良くなった分、どこまで勉強するのかに悩んだのである。

私は毎日のように散歩を最低でも5,6キロメートルはしていたが、その最中でも将来のことを心配するようになった。

私の散歩ルートは、馬場に住んでいた頃は、早稲田通をまっすぐ行き、九段下あたりに出て、
それから神保町の本屋街をめぐるというものであった。

ある時私は神保町の三省堂の洋書売り場の前で、このまま合格しなかったらどうしよう。
私を受け入れてくれるような小さな職場を探して、SFかファンタジーを読むことを趣味にして一生を暮そうかと思い悩んでいたこともある。

また馬場時代、下宿近くを流れていた神田川を眺めて、このまま飛び込めば死ねるかなあ。
高さがいまいちだよなあ。と考えていたこともある(神田川と聞けば厭なイメージしかないので歌の神田川は嫌いである)。

それでもビールは手を話すことがなかった。酒が私の状況をまねいた最大の原因だなとどとは思えなかったのである。

それで毎日寝る前には必ず4,5時間をかけてビールを飲んでいたし、友人たちと飲む機会があれば、朝方まで酒を飲んでいた。
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前回話したように、私の司法試験の4度も目のチャレンジは、不眠、離脱症状、猛暑での受験といったといった最悪の条件下の受験であったが、試験そのものは、それほど悪い答案を書いたつもりではなかった、それに、もはや4回目の受験ではないか、もうそろそろ合格してもよいのではないかと思いが強かった。
前回は論文式試験を受けられただけでも幸せで、結果はそれほど気にはならなかったが、今回は、合格したいという思いがあった。
もうプータローの生活を切り上げたかったのである。

しかし、10月初めころであろうか(時期はもう忘れました)に法務省に試験発表を見に行ったのであるが、私の名前は、掲示されていなかった。
3度目とは違い4度目の試験失敗はかなりのショックであった。
地下鉄に向かう途中の公衆電話で、実家に落ちたことを連絡し、地下鉄に乗った、何線かは忘れてしまったが駅名は桜田門であった。

ここで何を勘違いしたのか、家へと帰るのとは反対側の車両に乗り込んでしまった。
乗り込んでしばらくして列車が反対側に進んでいることに気づいた。私は茫然とした気持ちで、電車を乗り直し、自宅へと向かった。

しばらくは家で茫然としていたのであるが、考えてもしょうがない、もう1年頑張るしかないのである。そこで私は、ビールを買いに行き、ビールをたっぷり飲んでから寝付くことにした。

ちなみに私は5回目の受験も失敗した。このときもいやいや実家に不合格の事実を告げたのち、地下鉄に乗ることとなった。このとき前年は乗る列車を間違えたのだから今年は間違えないように注意しようと思っていた。が、しかし、しかしである、注意していたつもりであったのに反対側の列車に乗り込んでしまっていた。それに気づいた時の感覚というのは何とも言えないものがあった。私はよほど変な顔をしていたのだろう。周りの乗客が、私の顔をじろじろと見ていたのを思い出す。それほど私は動揺していたのだろう。

受験4回目の失敗から私は試験に合格しなかったらどうしようと考えるようになっていった。

しかしビールは寝るまで飲んでいたし、ビールを飲んでいるときは、SFか推理小説を読むか、ファミコンをするという生活を続けていた。

今から考えると全くの阿保である。
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試験直前にアル中がしてはならないこと、それは『禁酒』です。

私は、何度も申してきたように19歳から途切れることなくアルコールを酔い潰れるまで飲んで寝ていました。

でも司法試験4度目となると今年こそという思いが強くなったのでしょう。

試験の間だけでもビールを飲むのを止そうと考えたのです。

そこで試験第一日目の前夜、ビールを飲まずに最後の復習を行い、眠ろうとしたのです。
でもアル中が酒をやめた第一日目はまともな睡眠がとれないことは常識です。
でも私は当時自分がアル中であるとは思っていませんでしたし、酒を飲まずに寝るとどうなるかも知りませんでした。

ただでさえ試験の前日というのは緊張するものです。

それをアル中の私が酒なしに寝ようとしたのです。
もちろん寝れるわけはありません。
結局一睡もしないまま朝を迎えてしまいました。

眠れなかったからと言って試験を休むわけにはいきません。
かばん二つにノートをいっぱいに詰め込んで、私は試験会場へと向かいました。

しかし試験会場は、朝から、蒸すような暑さです。
そこで全く寝ておらずかつアルコールが抜けてきつつある私が試験に望むことは過酷の限りでありました。
試験用紙には、顔から滴る汗が垂れ、書いた文字をにじませます。
汗をかいたのは試験会場が暑かったせいもあるでしょうが、離脱症状もあったかもしれません。
ともかく必死の思いで問題に立ち向かったのを覚えています。

最初の試験を終え、お昼を迎えた私は、早稲田のキャンパス内にあるベンチに倒れ込むように寝転がり、神様に誓いました。
「神様、もうビールを飲まずに試験を受けようというような無謀なことはいたしません。だからなんとか合格させてください」
このときは本当に真剣にそう思いました。

午後、残り2つの科目の試験を終えた後、私は、必死の思いで家にたどり着き、ビールを飲みました。
もちろん翌日の試験の準備はしなければなりません。そこでしっかりとビールを飲みながら私は試験の準備を始めました。翌日は2科目だけだったと思うのですが、ノートをパラパラと見返した後(ノートの量が膨大でそれくらいしかできません)、復習をしながらたっぷりとビールを飲み、私は翌日へと控えました。

4度目の試験は、一日目こそは体調的には最悪でしたが、できはそう悪くはないと思いました。
だから今度こそはという、思いは私は持っていたと思います。

そこで法務省に論文試験の発表を見に行ったときは、3度目と違って、かなり期待して見に行ったと思います。

つづく
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さてメインの司法試験を目指しての続きである。

前回は、3度目の試験を受けたところまで書いた。

3度目にして私は、司法試験が何となく自分が狙える範囲のターゲットであると思うようになった。

短答式試験も自信を持てたし、論文式試験も捉えられる実力が自分にあることがわかった。

それもこれも人との交流を司法試験予備校のゼミに入ったことから得られた成果である。

そのころから私はある程度落ち着いた生活をするようになった。
ただ怠け者のアル中である私は、勉強をする時間が限られていた。
予備校の答案練習会に合わせて、答錬の範囲を勉強し、その結果をノートに書き写すという作業だけであり、答案練習会が終わった後、返却させた前回の答錬の内容を、仲間同士で検討した後は、馬場の飲み屋に直行していた。
馬場でさんざん飲んだのちは、友人の友達が経営している中野のスナックに行き、そこでさらに飲んだ。ただカラオケだけは不得意であったので、ほとんどうたうことがなく、友人たちが歌うのを聞いていただけであった。

中野から帰るのは午前4時ころであり、タクシーで馬場に帰るというぜいたくなプータロー生活を送っていた。

それでも、成績は順調に伸びていたし、もう私は一人ぽっちではなかったし、適度に勉強して後は仲間と遊んで飲んでさえいれば、幸せな私であった。

そうこうしているうちに4度目の試験を受けることとなった、短答式は絶対の自信があったし、論文式試験もそれなりの自信を持てるようになっていた。
だから今度こそ論文式試験を合格して口述式試験まで行き、合格できるような気がしていたのである。

短答は勿論、問題なく通った。次は論文式試験である。7月後半位か8月初め位にあったこの試験は猛暑との戦いである。
試験は受験地で差があってはならないということからエアコンはなしの試験であった。
それなら北海道で受験した方が有利ではないかと思うのであるが、受験地を北海道にする気ににまではなれなかった。
そこで当時東京に住んでいた私は、早稲田大学本校のキャンパスの中で、毎回論文式試験を受験していたのである。
住んでいたのは高田馬場であるから、早稲田のキャンパスまでは、早稲田通りを歩いて行けはいける。そこで毎回、それまで作成したノートを山のようにかばんに詰め込んで歩いて早稲田大学まで受験に行っていたのである。

確か4度目の試験であったのであるが私は論文試験1日目の前夜アル中としては考えてはならないことを考えてしまった。

つづく
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スペルボーン(Spellborn)