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今日初めて鍼灸院に行って来ました。
右肩から始まった五十肩が左に進行しパソコンさえも打てなくなったからです。
もはやクリームさんの事は笑えません。
お昼に鍼灸院に行き、マッサージと鍼をうたれてきました。
これまではクリームさんの牽引を馬鹿にしてきましたが、自分の肩が動かない事を経験しますと,わらでもすがりたい気持ちになります。

もうこれ以上は限界です。

つつきは明日ということで。
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by kanta5988 | 2007-11-28 22:22 | 人生
実はここから先のことは記憶があいまいである。

私は毎日、ビールを飲みながら本を読んで明け方近くに眠り、お昼過ぎに起きてきて、歩いて神保町や渋谷まで行き本屋を散策して、本を買い、外が暗くなるとビールを飲み始めるという生活にのめりこんでいった。

読んでいた本は、SFやミステリーであった。ただビールを飲みながらの読書であるので、量はたくさん読んだが、内容は今となってはほとんど覚えていない。

当時気に入った本の中に栗本薫著「グインサーガ」があった。私がこの本を見つけた時はすでに5巻が出版されていたが、神田神保町にある三省堂で見つけた時は踊り上がって喜んだ。何といっても全100巻完結というのである。栗本薫がどこかで物語は終わってはならないとかいうようなことを書いていたと思うが、私もそう思う。その意味ですでに5巻もそろっているグインサーガは申し分なかった。

一気に5巻買ったのか、毎日1巻づつ買ったのかは覚えていないが、私はビールを飲みながらこの本を耽読した。

ひいらぎ氏もグインサーガを20巻あたりまで何度も読んだと書かれていたが、私は、この5巻を10度以上も読み直したと思う。

最初この本は100巻完結予定であったが、現在も完結せず、今も継続中である。lそのため私もこの本を現在も読み続けている、今月読んだのは117巻「暁の脱出」であった。
栗本薫も酒をやめたとのことであるが、本来の目標であった第100巻「豹頭王の婚礼」までは、死ぬことなく、書き続けていただきたいものである。

ミステリーもお気に入りであったが当時気に入っていたのはアガサクリスティーの作品である。
もはや古典的なミステリーであるが、きちんと伏線がはってあって慎重に読み進めると誰が犯人かが明確にわかった。ビールぼけをしていた私の頭でも結論が推測できたのである。それに対して現在のミステリーは、読了直前になって新事実が明らかになり、結論へ至るというものが多く、いろいろ推理しながら本を読むという楽しみがなくなっていると思う。

私の読書傾向は今も変わっていない。あまり役に立つという本は読まないのである。

私は空想の中の世界に生きることが好きであり、今でも空想の世界の住人である。

ただ、当時と違って、私も年をとった。今は母と二人暮らしであるが、いつ母がぼけるとも死ぬとも限らない。私も、以前はいつも実際の年齢より若く見られていたが、鏡を見ると年をとったものだと思う。
一度だけでもいいから生き直しの機会が与えられたらと思う。
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入学早々、講堂でレクチャーがあった。
その内容の一つに、滑り止めで入学してきた人もがっかりすることなく、これからが勝負だから勉学に励むようにというものがあった。
私は、私のようなものを拾ってくれた慶應であったから、感謝することはあれ、落胆することなどなかった。意気揚々だったような気がする。

問題はビールを多量に飲んで寝る習慣がすでに付いていたことである。

それに昔からの私のさぼり癖が重なった。
塾へは申し込んでもすぐに行かなっていたし、高校は病気でもないのにさばったのは1度だけであるが、いつも遅刻寸前で駆け込んでいた。あまりに時間がないときはタクシーに乗り、校門前まで乗り付け授業に行っていた。一度タクシー料金が10円足らなくなり、必死になって探していると運転手さんがもうええわ。と言ってくれたこともあった。以前話したようにクラブ活動はさぼって当たり前であった。

一人暮らしになるとだれの目を気にすることなく、さぼることができる。
そこで私は、夜明けまでビールを飲んで、昼過ぎに起き、日中はは何をすることもなくボーとして過ごす生活が大学1年生の夏休み頃には定着してしまった。

慶應には、夏季休暇の際、体育の特別授業があった。どれか自分の好きな科目から一科目を選択して、10日ほど学ぶのである。初年度は私は乗馬を選択したが、2、3日行ったのち、後はさぼってしまった。当然単位はもらえない。
この授業に関しては2年目は登山を選択した。内容は2泊3日で、日本で二番目に高い北岳に登るというものであった。
これは正解であった。いったん家を出てしまうとそのまま帰ることはできない。夜もビールを飲むことはできない。否が応でも単位が取れるのである。

1晩ロング缶3本で始まったビールであるが、徐々に増えていった。3本が4本に、4本が5本に、そして6本へとなったいったのである。ますます飲む時間は増え、その反動として、起きる時間はどんどん遅れていった。出席する授業もその影響でどんどん減っていった。

1年目の夏休み以降は、ほとんど授業に出なかったと思う。

授業に出なくなって問題だったのは、単位が取れないということだけではない。同じクラスの友人との付き合いがなくなっていったということである。
授業に出なくても、他の活動を行っていれば、それなりの付き合いというものができるであろう。しかし、私の友はビールと本である。
人との付き合いは急激に減っていった。
2年時になった時である。同じクラスの友人が私に久しぶりと声をかけてくれた。
しかし、私はその友人をもはや忘れていた。彼が奇妙な顔をして去って行ったことを今でも覚えている。
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慶應は合格であった。
さすがに偏差値が他校に比べて一番低いだけはあった。
私のようなものでも合格とさせていただいたのである。

私も私学ではあるが、慶應なら名が知られているし、それほどかっこ悪くないかなと思い、素直に喜ぶこととした。

合格してからのことについてはあまり覚えていない。
たぶん下宿先を探しに行ったはずである。

決まった場所は、東横線祐天寺である。
ここなら、慶応の教養学部がある日吉にも電車一本で行けたし、三田にも出やすかった。

まずは自分一人で探しに行った。しかし、東京に慣れていない私は何度も最初の下宿先であるアパートの家主に電話して誘導してもらいつつ、祐天寺についた記憶がある。
決めた下宿先は、典型的な下宿先で、風呂はない、トイレも洗面所も共有であった。

新学期が始まり、私は慶応の日吉キャンパスにいた。
キャンパスの中を歩いていて私は自由感を感じていた。
浪人時代と違って、拘束を受けているのに、私は自由だと感じたのである。
人間はある程度、自分の基盤が固まらないと、自由だと感じないのではないかと思った。
でもそれは矛盾している考えで私の弱さを表しているのかもしれない。
ただ、晴れ晴れとした気持ちは本当であった。
そればまもなく、鬱々とした気持ちに変化するのも知らないでということである。

これから最悪の人生が始まるとも知らないで優雅な気持であった。
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今日、日曜日は、破産の人の事前準備と、刑事事件(携帯電話のカメラで女性のスカートの中を撮った)の人が来た。
刑事事件の人は、ひたすら恐縮して私に謝ろうとするが、私は取調官でも裁判官でもない。
謝ってもらっても困るのである。
でも、謝るという姿勢は大切である。
最初から弁護士に対して大柄な口を聞く人に対しては、そんな人は誰が弁護なんかしてやるかと思ってしまう。

今日の人は、礼儀正しく見た目にはなかなかハンサム?と言っていい輩である。
それだけで好印象を与える。

なかには最初の電話の物言いだけで弁護を断る人もある。
それに較べて今日の人は助けてやろういう気になった
見た目は極めてまじめな人物なのである。
しかし、なんで女性のスカートの中を撮影したいのか正直分からない。
もてないタイプなんかではないのである。

でもその人にはその人の理由があったのであろう。

刑事被告人を弁護するのは許せないという風潮もあるが、実際に被疑者・被告人に会ってみるとそれなりの言い分はあり、同情する面もあるのである。

私がこれまで弁護士をやっていて、こいつだけは許せないと思ったのは、二人だけである。
こいつらは極刑であると思ったが、それを言えば、私は、民事、国賠、懲戒請求の三つで告訴されることになる。口が裂けてもいえないのである。

だれか弁護士の辛い立場も分かってよ。
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by kanta5988 | 2007-11-18 15:11 | 法律談義
指導担当の検事は、私と同い年であった。

彼は若くして司法試験に合格し、司法研修を経て、当時は人気のなかった検察官を目指した。
修習は金沢修習で、金沢の弁護士事務所の事務員の中で2番目に美しい(念のためこれは冗談である)という女性と結婚し、検察庁に入り、順調に出世し、出世コースの一つである修習生指導担当検事になったのである。
私から見ても有能で思いやりがあり今後とも出世確実という人物であった。

私は自分がまともな社会人、それも結構尊敬される社会人になったことについては純粋にうれしかったが、彼を見て、私は、もっと早く司法試験に合格していたら、出世コースにも乗れたかもしれないと思い知らされた。

とある神戸郊外の野球場で野球の試合があったさいであるが、免許はあるものの、酒のため運転はしていなかった私はとぼとぼ球場まで歩いていたときがある。すると後から車で来た指導担当検事に見つけられよう〇〇くん車に乗りなよと声をかけてもらった。
うれしかったが、もう同年輩の彼にはもはや及びもつかないのだと思いで悲しくなったのも事実である。

司法試験に合格したからと言って当然に、裁判官や検察官になれるわけではない。
裁判所ないし検察庁からお声がかかって、どうだうちにきてみないかという勧誘があるわけである。
年配の私には、お声はかからなかった。
ただひとつだけ、検察修習の時に、検察事務官からある時、なあ〇っ〇ー(当時のあだ名)、お前検察官にならないかと言われたことがあった。このとき彼も私と同年齢であったが、俺、〇っ〇ーの下でなら働いてもいいで。と声をかけてくれたのである。嬉しかったが、もはや私の年齢では出世は限られているという思いから申し出を断った。

連続飲酒が始まる前であったので、惜しげもなく断ったのであるが、今から思えが、身分保障のある公務員になっておくべきであったとも思う。
でも当時はまだ逆転のある弁護士に可能性をかけたのである。

それから何年たったであろう。私は弁護士としてもアル中という烙印を押されることになったのである。

もう弁護士としても成功の可能性はないに等しい。
でも弁護士以外に生きてゆくすべも知らない私にとっては、これにしがみついていくしかない。

このブログは、何年も続けていくつもりである。そうして少しでも楽に生きられるようになっていればと、今は祈るしかない。

第一回閑話休題はここにて終了。
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by kanta5988 | 2007-11-16 16:49 | 人生
私が司法試験に合格した時代は、試験合格後、2年間の司法修習を受けなければならなかった。
2年間の前半4ヶ月が、東京湯島にある最高裁判所司法研修所にて、座学にての勉学、その後全国各地の裁判所に分散されて、それぞれ4ヶ月づつ、民事裁判、刑事裁判、検事、弁護士の実務修習があった。
1年4ヶ月の実務修習をおえて再び司法研修所にて、まとめの学習、そして最後に一般的に2回試験と呼ばれる(2回目というのは、司法試験が一度目で実務家になるためのもう一度の試験という意味で2回試験と呼ばれている)試験を受けてそれに合格すれば一人前であった。
私が司法修習生時代であった頃はまた改めて語ることとなるであろうが、今日は、別の観点から当時の私について話してみようと思う。
私は、神戸に配転されたが、神戸での修習は、弁護、民栽、刑栽、検事の順であった。
弁護修習は各弁護士事務所に2名づつ、裁判修習は、各部に3名づつ、そして検察修習は、大部屋で9名で修習である。2回試験において最も勉強量を要するのが民栽であるから実務修習の最後が民栽であることが望ましく、検察修習は大勢の仲間と一緒にいられるので、みんなが仲良くなるには一番の機会であった。だから検察修習が最初であるのが望ましかった。
それが私の場合、弁護の次に民栽があり、最後が検察修習であった。
多少不利な割り振りである。
それでも検察修習は楽しかった。修習生室は法務合同庁舎の3階にあり、その隣に修習指導担当検事の部屋があった。担当検事の部屋の冷蔵庫にはビールがふんだんに置かれており、その隣のロッカーにはおつまみの乾き物が多量に置かれていた。
それで私は、猛烈に働き、午後5時には仕事を終わらせるようにして、5時と同時にビールの栓をあけ、一杯飲み始め、同期の仲間の仕事をひやかしていたのである。
6,7時になるとみんなそれぞれ割り当ての仕事を終え、指導担当検事の部屋に集まって、ビールを飲むこととなる。当然その頃にはおなかがすくので近くの中華料理屋からおつまみの出前を取る。それらすべては指導担当検事のおごりであった。
ちなみに裁判官室には冷蔵庫などない。当然仕事が終わったからと言ってビールなど飲めない。それに裁判官は付き合いが悪い。仕事帰りにおごってくれることなどまず全くないと言って良い。
それに対して検察庁はおおらかである。検事室には冷蔵庫が置いてあることがあり、ビールくらいは飲めるのである。

そうそうここで話したいのは、そんなことではない。
それは修習指導担当検事と私との比較のことである。
私は、1浪し、大学も7年かかって卒業し、そのあともプータローないしはニートとしてすごし、やっとのことで司法試験に受かった人間である。
司法試験に受かり、司法研修所から給料をもらい、一般の社会人と呼べるようになったのは、すでに30歳を超えていたのである。

ここまで私を堕落させたのはもちろんアルコールである。
でもまだ修習時代には私には自分にアルコール問題があるとは分かっていなかった。
ただ、同世代に比べて極めて出遅れたのは事実である。
それを思い知らされたのは検察修習が初めである。
つづく
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by kanta5988 | 2007-11-15 14:02 | 人生
明け方4時までウイスキーを飲みながら日本史の復習をしていたわりには元気に試験会場につけたと思う。

試験開始時間は覚えていないが、9時か10字頃度はなかったであろうか。3科目全部の問題を渡されて、その中から回答していくと言うものであったと思う。
解答を始めた順番は良く覚えていないが、英語を最後に回したのは確かである。

問題内容はもはや記憶にはないが、日本史では日本最初の天皇の名前を聞かれたことを覚えている。戦前の尋常高等小学校では天皇の名を初代から暗記させられたということを聞いたことがあるが、私は天皇の名など覚えていない。今現在の天皇の名前も知らないくらいである。
悩んだ末、ふと出てきたのが神武という名前である。「神」に「武」なんて初代の名としてはなかなか良いではないかと思った。そこで神武天皇と書いた。正解である。次に覚えているのは数学で三角形一般の面積か何かを解答させる問題である。高校生の時にはその解法を覚えていたが、それはもはや一年前のことである。すっかり記憶から消えていた。悩んだ末、正三角形も三角形のひとつなんだから問題を正三角形に置き換えて計算すればよいではないかと思い、図を描いて計算して答えを出した。正解に至るまでの式の展開を書かなければいけないような問題だったらお手上げだったのであるが、問題文では解だけを枠内に記載すればよかったのでそれもクリアした。酒びたりの浪人生にしては結構頭が回ったのである。

そうして問題文に取り組んでいたのであるが、明け方まで飲んでいた酒が途中で切れてきた。
だんだんと気分が悪くなっていき二日酔い状態へと試験中に移行して行ったのである。
おまけに座った席が、教室の端で、私の隣においてあるオイルヒーターの熱気が私にまともに当たってくる。もあ~とした熱気で、吐きそうになってきた。
でもその場から逃げ出すわけには行かない。私には後がないのである。
我慢しつつ、問題を解いていった。しかし日本史と数学を解くのに意外と時間がかかってしまっていた。最後の英語に残された時間は40分くらいである。
もはや問題をゆっくり読んでいって解答している暇などない。
設問の冒頭にある英文をざっと読み、選択肢にある英文をこれまた流し読んで、その場で回答である。正解か否かのチェックをしている時間はなかった。
ここで役に立ったのが予備校の夏季特訓であった。
なんとか英文の意味を推察しながら、回答へと辿りついていけたと思う。
もはやこうなると二日酔いも何もなかった。
時間ぎりぎりに最後の問題を解き終わった。

あとは合格発表を待つだけである。
その後どうやって、京都に帰ったのかは覚えていない。

新幹線で京都または神戸に帰ったはずであるが、その時ビールを飲んだか否かは覚えていないがさすがに当時は新幹線の中でさえもビールは飲まなかったはずである。
大学時代以降はあまりに次々とビールを飲むので近くの人にあきれられた目をされた私であったが、まだ当時はうぶだったのである。 
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昼前に起き、昼間は本屋を散策、夕方からはビールを飲みつつ本を読むという習慣が始まった。
その習慣は9月頃から12月頃まで続いた。
勉強はまったくしないままである。

ところで私が浪人した時期から大学共通一次試験が始まった。
それまでは大学が独自の出題をしていたのであるが、まず共通1次試験を受けて、その成績で、大学が受験できるかどうかになったのである。
確か5科目くらいは受験しないといけなくなったはずである。

飲んだくれていた私にとっては、どう考えても後、1ヶ月か2ヶ月ですべての教科の準備をする余裕がない。

そこで国立大学は、諦めることとした。
私大の受験なら、3科目くらいで受験できる。
3科目なら、一か月もあればなんとか回せるはずである。
そこで私は私大受験に的を絞ることとした。
さすがに2浪は厭だったからである。

目標としたのは、同志社大学法学部政治学科、早稲田大学政経学部、慶應義塾大学法学部政治学科、そして中央大学法学部政治学科の4校である。

なぜ政治学科にこだわったかについては覚えていない。ただ当時は政治学を学びたかったのである。

同志社については鮮やかに不合格であった、早稲田については答案を書きながらここはだめだなと思った。中央大学については、受かってもあまり行きたくない気がしたので、申し込みはしたものの試験当日は休んでしまった。
残るは慶應だけである。
受験科目は、数学と英語と日本史であった。

受験に際しては、港区高輪にあるホテルを利用した。
歩いて受験会場である三田に行けるところであった。

ただ記憶にあるだけだが、夕食はホテル内にある寿司屋に入った。
ここで生まれて初めて生の蛸の握りを食べた。
お酒はこのときは飲んでいない。

その後、部屋に帰って、外で買ってきたビールを飲み始めた。
それで最後に勉強をして合格の可能性が高まるのは何であろうかと考え、結局、暗記勝負の日本史であろうと考えた。
私は最初はビールを飲み、ビールが無くなると、これまた外で買ってきたウイスキーのハーフボトルを飲みだした。
日本史の勉強は、明け方の4時まで続いた。
さすがにこのころには、ウイスキーの瓶も空になり、眠気も襲ってきたので、試験までの間若干寝ることにしたのである。

朝7時ころ起きだし、朝食をとり、受験会場である慶應の三田キャンパスに向かった。
つづく
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前回、私が受験期に父が暴れたこと、受験不合格が決まった後に、私を京都に行かせようとしたことを書いたが、書いていて、その間に何らかの因果関係があったのではないかと思うようになった。しかしもはや父は亡くなっている、このことについてはもはや質問できない。ただ京都に行くことになったのが、私が若くしてアル中になった一助であることは間違いがないと思う。

友人は、我がマンションに一泊するつもりでやってきた。
昼間はどこでどうしていたのにかについては全く記憶がないが、外が暗くなって、酒を飲もうかという話になったと思う。
最初はビールであった。私のマンションの道路を隔てた斜め向かいにビールの自販機が置いてあった。たぶんここで買ったのではないかと思う。
ビールを飲んで気を良くした私たちは、近所の酒屋でウイスキーを購入した。
ウイスキーをどうやって飲んだのかは覚えていない。ストレートで飲んだのかもしれない。
ともかく私は、これまでからかけ離れた量のアルコールを摂取した。
飲んでいるとき覚えているのは、マンションのベランダから、「吐くぞ~」とさけんではいたことしか覚えていない。
覚醒したのは翌日の朝である。
私は吐しゃ物がこびりついたベッドの上で眠っており、部屋中には、こぼした醤油の奇妙なにおいが充満していた。
友人は私が起きる前に、起きたとのことであり、表を当てもなく徘徊した後帰ってきたとのことであった。
私を待っていたのはとんでもない二日酔いであった。友人は昼頃帰って行ったが、吐き気のおさまらない私は、近所の薬局まで薬を買いに行った。
その薬を買いに行く帰り、お姉さんが私に寄ってきて、万病に効く水を買わないかと言われた記憶がある。よほど私は他人から見てぼろぼろの状態であったのであろう。
だが若いというのは素晴らしいことである。
夜になる頃には、私は二日酔いの状態から脱していた。

それで、多分、多分当日であろうが、私はマンションの斜め向かいの自販機からビールを買った飲んだのである。
量はロング缶3本、1、5キロリットルである。
ビールは二日酔いの不快感を吹き飛ばしてくれた。
この日からである、私は毎日ロング缶3本を買いに行くようになった。
ビールは、受験という現実から私を引き離してくれたし、なんとかなるという気を引き起こしてくれた。

その結果、9月頃からは、予備校にもいかなくなり、夜はビールを飲み、昼近くまで寝て、起きだした後、本屋に行き、本を買って、読むという私の人生の前半期の生活がこのころ確立されたのである。
当時気に入った本は半村了の妖星伝であった。こんな面白い小説があったのかと思ったくらいである。
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スペルボーン(Spellborn)