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2007年ももう終わりですね。

このブログを書き始めたのが、今年の10月29日ですから、ブログ開始から約2か月が経過したことになります。
まだ2か月かというのが私の正直な感想です。
このブログがいつまで続くか分かりませんが、時間が許す限り、できるだけ書き込みしていこうと思っております(ブログを作ってよかったと思います)。

少数ながら、継続して、読んでいただいている方もおられるみたいです。
ありがたいことだと感謝しています。

ビリケンさんのように毎日のようにブログを更新されている方もいらっしゃいますが、私には無理みたいです。
でも、定期的には、書き込んでいこうと思っていますので来年度も何とぞよろしくお願い申し上げます。

できるだけ弁護士ならではの観点からの投稿もしていこうと思いますが、何分、弁護士になってからも長年アルコールを摂取し続けましたので、キャリア相当の知識も技能もありません。私はもう48歳にもなってしまいましたが、仕事はこれからが本番と思っております。

私は、1年大学受験浪人した上、大学は3回留年し、卒業後も司法試験浪人を続けたというとんでもない親不孝者です。おまけに弁護士になってからも連続飲酒を何度も繰り返し、仕事ができず、経費を親から支払ってもらったこともあります。酒を飲みながらでも、稼いでいた時期もありましたが、近年は年齢のせいか、酒を飲めば動けなくなってしまうようになりました。
幸いなことに内臓は丈夫みたいでして、どこか内臓を壊したという経験はありません。
でも、私の脳は限界みたいです。これ以上酒を飲み続ければ、仕事を完全に失ってしまうでしょう。仕事面でいえば、今がもう底です。

親に散々迷惑をかけてやっとなった弁護士稼業です。
親孝行のためにも仕事は続けたいです。

このお正月も正月返上で事務所の整理と来年度に向けて溜まった事件の整理をするつもりです。
2008年度も、酒をやめ続け、仕事ができるように頑張っていく所存です。

皆様方も、来年度は有意義な年でありますようにお祈り申し上げます。

なお来年度からは、一度だけアルコール依存症に向けての章を書いた後、司法試験に向けての章に入る予定です。
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by kanta5988 | 2007-12-30 12:32 | 雑談
さて飲酒検知実験も無事終了した。
修習生たちは、皆ご機嫌な状態になっている。
そうしたところ指導担当検事がみんなに「さあ、これから酒飲みに行くか~」
と言ってきた。既に出来上がりつつある我々にはもちろん異存はない。

検察修習で飲む場合は、まず、検察庁の中で飲んで、そして検察庁御用達のスナックに行くことが多かったが、この日は人数も多いこともあってか、神戸駅近くの居酒屋に行くこととなった。

ところで呼気中に含まれるアルコール濃度が最大にまで高まるのは、個人差があり、飲んだ後、30分から2時間位だと前回に言ったが、検察庁で後片付けをして、居酒屋についた頃が、皆さん、酔いもピークに達しようかという頃あいである。おまけにみんな呼気1リットル当たり0,25ミリグラムのアルコール量を出そうとして、いつものペースではなくかなりハイピッチで飲んでいるから、飲酒量もかなり多いと言ってよい。

居酒屋に着いて、飲みなおし始めたころには、みんなもう相当出来上がってしまっていた。

私は検事の横あたりに座っていたのであるが、ふと気付くと、後ろのトイレあたりで何やら言い争っているような声がする。なんだろうと思い、覗きに行ってみると、仲間の修習生が激しい口調で男に今にも掴みかからんとするような様子で文句を言っている。そいつは元暴走族でのちに裁判官になった男であるが、体格ががっちりしているので、相手の男は怯えているような感じであった。

修習生が飲酒検知実験後、居酒屋で暴力事件を起こしたとなると、これは新聞ネタになること間違いない。絡みかかっている仲間も処分を受ける可能性がある。そこでこれはやばいと思い、あわてて3名ほどで、仲間の修習生に組みつき、その場で取り押さえて、男をトイレの外に出してやった。

なんでも仲間の言うことには、トイレに行ったところ男性用のトイレが使用中だったので近くの店員に断って女子トイレを利用し、出てきたところを別の従業員に見とがめられ、注意をされたので、俺はちゃんと断って使用しているのに文句を言うのは何だということで怒り沸騰に達したという話であった。

普段より酔っぱらっていたのは、私も同じである。飲酒検知実験はちょうど夏休み明け頃に行われたのであるが、夏休み前に私が取り調べていた夫婦で覚せい剤を使用した事件に関してさんざん検事に対して絡んでしまった。

その事件は、妻が先に逮捕された事件であり、夫も使用したというので、警察官が自宅に向かったのであるが、警官の不手際から、夫を逃がしてしまったという事件であった。夫は10日後逮捕されたが、10日もたつと覚せい剤反応は出なくなってしまう。
それでも私は、妻の供述や髪の毛を分析すれば、覚せい剤取り締まり違反で、起訴に持ち込めると考えていた。

しかし、私は途中で夏休みに入り、休み明けに進行状況を聞くと、妻は起訴するが、夫は処分保留で釈放したというではないか。私はこの処分にはムカついた。主犯を釈放してどうするのかと、思っていたので、ぼろぼろに酔っぱらっていたその時は、感情を抑えきれず、10分以上、「俺の被疑者を返せー」と言いながら、検事に検察のやり方はおかしいと絡みついていたように思う。

さてこれで飲酒検知実験の巻きは終了するが、この実験は、裁判官、警察官、弁護士となろうとする者にとって重要な実験であるというのが、正直な感想である。呼気1リットル当たりのアルコール量が何ミリグラムかということを聞かされれば、だいたい飲んだ酒の量が見当つくし、酔っぱらう程度も見当がつくからである。
これは酔っぱらいにかかわる事件の処理にとって重要な意味を持つ。
税金の無駄遣いとは到底言えない実験であることは皆様方には理解していただきたいと思います。
以上
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さて、いよいよ飲酒検知実験の始まりです。
普段は、仕事の終りに、指導担当検事の部屋で、皆でわいわい言いながら、ビールを飲むのですが、今日は違います。これは正式な授業です。警察官2名を傍らにして、皆さん神妙な顔つきです。

アルコール類なら何を飲んでもいいのですが、ちゃんぽんは禁止です。自分の飲んだアルコール量が分からなくなるからです。

私も、神妙な顔つきだったはずですが、お好み焼き代のカンパを募るなどして、内心は、わくわくドキドキしていました。

私の選んだのはもちろん大好物のビールです。

目標は呼気1リットル当たり0,25ミリグラムのアルコール量の摂取です(前も書きましたが、当時はそれが酒気帯び運転の基準値でした。現在は0,15ミリグラムになっていますので、仮に飲酒検知実験が現在でも行われているとすれはそれが目標値になっているでしょう)。

さてまずはビール大瓶一本を飲んだところで、警察官のところに行き、口を水ですすいだのち風船を膨らませました。口をすすぐのは口内にビールが残っていると正確な数値が出てこないからです。私は何度か目のかの風船を膨らませる時、警察官に口をすすがないでやってごらんと言われて、風船を膨らませましたが、一気に0,6ミリグラムを超える数値が出てしまいました。
(読者の皆さん、飲酒運転など今後はされないと思いますが、仮に飲んで運転してしまったときは、口は水で念入にすすいでから、検査を受けることをお勧めします)。

最初の時は、数値は覚えていませんが、全然目標値には及びませんでした。
これは手ごわい。頑張って飲まねばと思い、好きなビールをがばがば飲み続けました。
他の人も次々と警察官のもとに行き、風船を膨らませていましたが、そう簡単に目標値はクリアーできません。

酒気帯び運転で検挙され、公判請求までいった人の弁護を2度したことがありますが、いずれも生中2杯とにチュウハイ1杯だけだったとか、少なめの量しか言いません。しかし、そんなこと真っ赤な嘘だということ、この実験を行った者には、分かります。
0、25ミリグラムを出すためには相当量を飲む必要があるのです。

また実験で目標値のクリアが難しい理由は、もうひとつあります。
それは、呼気中に含まれるアルコール濃度が最大にまで高まるのは、個人差があるそうなのですが、飲んだ後、30分から2時間位のちだということです。

実験では飲んだ直後に風船を膨らませるので、酔いが十分には回っていない状況下で目標値を出さなければならないというハンディ(?)があるのです。

さて皆さん(下戸1名を除く)懸命に飲むのですが、目標値に達する前にアルコールが徐々に回り始め、最初は実験だと神妙な顔つきをしていたのが、だんだんと陽気になっていきました。実験だったのが、徐々に宴会モードに変わっていきました。

かわいそうなのは警察官です。自分は一滴の酒も飲めないまま、酔っ払い連中の相手をせざると得なくなっていくからです。しかし、修習生はそんなことお構いなしに、陽気におしゃべりしながら酒を飲み、ときどき警察官のもとに行き風船を膨らませていました。

私が目標値を達成したのは、どれだけビールを飲んだ時か、何度風船を膨らませた時かは、もはや正確には覚えてないのですがビールを5本近くは飲んでいたように思います。

2時間くらいたった時には、男性陣は下戸の人を除いて全員目標値はクリアしたように思います。しかし女性には難しかったみたいです。途中でリタイアしてしまった人もいました。

今日はここまで、明日また続きを書きます。
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皆さんは、自動車の運転中、検問に合い、酒の匂いがするとして飲酒量を調べるために風船を膨らまされたという経験がおありでしょうか。

私は、飲酒運転は何度も行いましたが、幸いなことに飲酒運転中に検問に合ったことがなく、酒気帯び運転等で捕まったことはありません。

一度、宴会の帰りに、検問に遭遇したことがありましたが、宴会ではウーロン茶は浴びるほど飲みましたが、酒は一滴も飲んでなかったので、口をあけて息を吹きかけろと口臭は嗅がれましたが、もちろん、アルコールの臭いがするわけもなく、無事通過しました。

酒を我慢しての宴会でしたので、行ってよし、となった時にはざまあみろと喜びました。もちろん運転の際には、酒を飲まないというのが本来の姿ですので、別に喜ぶ必要もないのですが、何度となく飲酒運転を繰り返していたアル中の私にとっては何となく痛快でした。この気持ち分かってもらえますでしょうか。

でも酒を飲んで飲酒検知のための風船は何度も膨らませた経験はあります。

今回ははその時の話です。

裁判官や検察官、弁護士になるためには司法試験に合格するだけでは足りず、最高裁判所司法研修所における研修が必要なことはすでに述べました。その際、私が実務の修習を行ったのが神戸であったのもすでに述べております。神戸での修習生の数は総勢27名でありまして、一斉に弁護士事務所で弁護修習を受けたのち、9名づつ3班に分かれ、民事裁判修習、刑事弁護士修習、検察修習を受けることになっておりまして、私が風船を膨らませたのは検察修習の時のことでした。

それは飲酒検知実験と呼ばれていました。
要するにどれだけ酒を飲めば酒気帯び運転となるかということを身をもって体験する学習です。検察庁の一室に検察修習を受けている全員が集まり、それぞれが好きな酒を決めて、酒を飲み、その部屋に控えている2名の警察官のところへ行って、風船をふくさませ、その時点で車を運転すれば酒気帯び運転になるというまで酒を飲むという実験でした。

当時の私は、すでに依存症だったのですが、自分が依存症であるとの認識がない時代でした。

これもすでにお話ししましたが、検察修習の時代は、夕方5時までに懸命になって仕事をし、5時になると同時に修習指導担当検事の部屋に行って、ビールを飲むのを何よりの楽しみとしていた時代ですから、その前に正々堂々と酒を飲み、それが修習になる(つまり酒を飲んで給料がもらえる)というのですから、これほど嬉しいことはありませんでした。

酒類はもちろん全部検察が用意します。おつまみも出ます。但し、割きイカやカキの種とか全部乾き物です。私は、それだけでは、情けないと思い、個人的に昼休みに近所のお好み焼屋に行き、各種お好み焼きと焼きそばを注文しておきました。これはもちろん費用は私個人の負担ですが、参加者各位にかんぱという名目で、それぞれから2,300円を徴収して、賄いました。

さてその当日のことについてですがこれは次回に続くということで・・・(引っ張ってます。分かっています。このネタの引っ張り方については、クリーム氏のブログでさんざん学びました。クリームさん、覚醒のエチュード、このところ全然関係のないことばかりを書いていますよ。早く落ちの部分を聞かせてください)。
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ほう、ほう、ほう~

今日はクリスマスイブじゃ。

カンタクロースにとっては一年で一番忙しい日じゃ。

何といっても、明日の朝までには、よい子のすべてにプレゼントを届けないといけないのでのう。

ブログは今日は休みじゃ。

なお明日はかんたは飲酒検知実験なることについて話すそうな。
プレゼントをもらえなかった者も楽しみにしているといいぞ。

それでは少し早いがメリークリスマス!

ほう、ほう、ほう~
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by kanta5988 | 2007-12-24 12:52 | 雑談
皆さんは最近危険運転致死傷罪なる刑罰が新たに設けられたのをご存じだと思います。
この刑罰により「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は15年以下の懲役に処せられ、人を死亡させた者は1年以上の有期懲役に処されることとなりました。


この刑罰が追加されたのは、従前刑罰では、いかに酔っ払った状態で、何人の人を殺しても、基本的に業務上過失致死罪 にしか問えず、原則最長で5年の懲役、ひき逃げなど他の罪を 併合罪加重しても、最大7年6月の懲役に問えないことから、それではあまりに被害者の人権を無視するものだとして設けられたものであります。

最近は、この刑罰で処罰されたとかというニュースを目にするようになりましたので、気になったことを若干書きます。

最近目についたのが、2007/12/19、神戸地裁で、ひき逃げと衝突により計3人が死亡した飲酒運転事故で懲役23年の判決が下りたという事件でありました。被害者の遺族はこれでも軽すぎると言っていたようでありますが、私の眼から見るとこれまでと比べようもなく重い処罰がなされるようになったものだとの印象を受けました。

ところがごく最近、福岡地裁が、飲酒運転の車に追突されたRV車が海に転落し幼児3人が死亡した事故で、検察側に業務上過失致死傷(前方不注視)と道交法違反(酒気帯び運転)の罪を予備的訴因(訴因とは要するに起訴状に書かれた検察の主張としての事件事実であって、裁判はこの主張に合理的に疑いを入れることができないかということをめぐって争われることになる)として追加するよう命じたというニュースが報じられました。

裁判所の予備的訴因の追加要求は、要するに裁判所としてはこの事件は検察の主張する危険運転致死傷罪には問えないので、このままでは危険運転致死傷罪としては無罪とせざるをえない。だから業務上過失致傷罪で有罪とできるようしてくれと検察に申し入れたということである。

二つの裁判で一方は、危険運転致死傷罪として認めながら、他方事件では業務上過失致死罪にしかなりえないと裁判所が判断するのはどういう理由からであろうか。

私の思うところ、運転者の酩酊の度合いが大きく違うことが原因の一つではないかと思う。
危険運転致死傷罪を認めた神戸地裁の場合は、呼気1リットル当たりのアルコール量が、0,83ミリグラムもあったとのことである。この数字は、意識があるのが不思議なくらいの量である。対して福岡地裁の場合は、事故後水を1リットル飲んだらしいが、アルコール量は呼気1リットル当たり、0,25ミリグラムであったという。今では呼気1リットル当たり0,15ミリグラムで酒気帯び運転となるが、しばらく前までは、これが0,25ミリグラムからであった。
要するに一昔前は、酒気帯び運転になるぎりぎりの量だったのである。

裁判官は、同種事犯との刑罰の均衡を非常に気にする。そこで福岡地裁の裁判官は、これまでの事件に比べて比較にならないほど重く罰せられる危険運転過失致傷罪では処断できないと考えたのであろうと私は思う。

検察は訴因の追加に応じるとのことである。本件では裁判官が危険運転致死傷罪では無罪とすると言っているのと同じことであるのだから、予備的訴因の追加もやむなしということであろう。

さてさて福岡地裁の判決が今後どのようなものになるのか。マスコミがそれにどう反応するのかが(不謹慎であるが)楽しみである。
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by kanta5988 | 2007-12-23 09:35 | 法律談義
前回、三田時代、朝起きると頭が締め付けられる感がし、それが夜再びビールを飲むまで続くようになったと述べたが、横山やすしが生前、ある知人に「俺は缶ビール一杯でも翌朝酒が残るねん」とこぼし、相談を受けた人が、それだけ師匠の肝臓がいかれてんねんと答えているのをテレビで見たが、私が思うに、それは肝臓の問題ではなく脳の問題だと思う。

横山やすしはよくぐてんぐてんになってテレビに出ているのを何度となく見たが、もう先は長くないなと思ってみていたものである。

私が初期のアルコール依存症になったのは何歳ころであるかということであるが、24歳のときには、もうおかしくなっていたという記憶があるので、23歳ころではないであろうかと思う。

とする19歳から毎日多量のビールを飲むようになって4年後ということになる。

自分の症状がもしかしたらアルコール依存症によるものではないかと思うようになったのは何時からかは、覚えていない。

しかし初期アルコール依存症になってから数年後には、自分がアル中ではないかということを疑い始めたようである。

それで本屋に行って病気に関する本が並んでいる棚から、アルコール依存症に関するものを抜き出しては、立ち読みするようになり始めた。

しかし病気の症状として、手が震えるなど、幻覚、幻聴が生ずるということは、書いてあったが、頭が締め付けれるようになって、イライラ感に襲われるという症状は、どの本にも書いていなかった。

また判定テストなども大抵の本に書いてあったと思うが、自分で判断しようとしても、仕事はしていなかったのでアルコールで仕事上の失敗したことがあるか、と書かれてあっても、そんなものはないと思ったし(本当は、授業に出なくなり、留年を繰り返していたということがまさしくこれに当たるのであるが)、ブラックアウトしたことがあるかという質問に対しても、確かにどうやって家に帰ったのか覚えていないという経験は、2,3度はあったが、そんなときは普段の何倍もの量を飲んだ時のことで、そういう状況下でブラックアウトすることはだれにでもあるものと思って、自分がそれに該当するとは思わなかった。そんなこんなで本屋でアルコール依存症に関する本を、何度も見つけ出して立ち読みすることはあっても、自分がアルコール依存症であるとは思わなかったのである。

現在のアルコール依存症に関する本が、私のような症状を、アルコール依存症に基づく離脱症状であると書いてあるかどうかは調べていないが、もし書いていないとしたらぜひとも書いていただきたいものである。
それが書かれていないと私のようにアルコール依存症であることを見過ごしてしまい、アルコール依存症が重度化する人はこれからも減らないと思う(もちろんこの病気は否認の病であるから、少々のことでは自らがアルコール依存症であると認識し専門病院につながる人は少ないであろうが)。

私が、自分がもうアルコール依存症以外の何物ではないと自己診断したのは、病状が悪化し、連続飲酒発作に襲われた時のことである。
時すでにもう遅しという状態になってからであった。残念である。
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昨日はなぜか疲れ切っていたが、一晩ぐっすり寝たら、頭がすっきりした。
今処方されている眠剤は私に合っているようである。
また朝方気持ちがいいということは、私はうつではないということであろう。

ところで、多分に三田に引っ越した後のことであるが、私は、朝起きた時に違和感を感じるようになった。何となく頭が重いような締め付けられるような感じが、朝起きた時からずっと続くのである。

私はてっきり二日酔いだと思い込んだ。
でもそれまで二日酔いの経験は何度もあるが、どんなひどい二日酔いでも、夕方まで寝ていると、治ってきていて、夜になると酒が恋しくなったものです。朝や昼間は、はきそうで天井がぐるぐる回る二日酔いの時など、朝、昼は、神様もう二度と酒など飲みません。早くこの状態から逃れさせてくださいという状態でもそれまでは夜頃には治っていたのであった。

ところがそう飲んだわけではないのに(と言ってもロング缶6本ぐらいのビールは飲んでいたが)、朝から何となく頭の具合がおかしいのである。

不思議に思って、ビールの量を減らしてみたが、朝起きると頭の締め付け感は残っている。
とうとうビール350ミリリットルの一缶にまで減らしたが、朝起きぬけの状態は変わらなかった。

私は不思議に思ったが、なんとなくそのままになっていた、散歩したり、授業に出たりするのに支障が生じるほどもことまではなかったからである。

しかし今から思うと、これは離脱症状であり、私はすでにこのころから初期の依存症にかかっていたのだと思う。

しかし当時の私は、アルコール依存症にかかりかけているなどとは思いもしなかった。
頭の締め付け感は厭であったが、夜のビールは欠かさなかった。

のちに詳しい話はするが、私は三田に住んだのち高田馬場に住むことになった。
この頃になるとさすがに酒をやめてみようという気になり、ビールを飲まない実験を続けたが頭の締め付け感は4,5日やめても残ったままであった。それで私は、私の場合、二日酔いではなく、三日酔い四日酔いといった具合だなと思っていた。

当時、これがアルコール依存症であるとわかっていたらと思うが、当時は気づきはしないままであった。
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今日は疲れているので簡単に。
こんな日はうつ状態に近くなります。

今日の朝日新聞の素粒子で見つけました。

「河豚喰ふて斗酒飲んで我死なん哉」 露伴

私はまだ死なないけどね。同意したくなります。

次の章である<司法試験を目指して>に関してはもう漠然としたイメージは出来上がっているのですが、その次何をかこうかと考え中です。

まあ奮戦記と名付けたのだから、アル中がどこまで頑張れるかを書くつもりでいますが。

これからも駄文によろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。
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by kanta5988 | 2007-12-20 18:49 | 人生
三田に移ったというものの、私の生活自体は、変化はなかった。
大きく変わったのは、散歩のルートぐらいであった。
以前は祐天寺から代官山、中目黒を通って渋谷に行くくらいであったが、
三田に引っ越ししてからは、三田から桜田通を辿って、桜田門から皇居に入り、竹橋のあたりに出て、神保町界隈の本屋を散策することが増えた。
時間にして、往復5,6時間以上歩いていただろう。
もちろん渋谷にも明治通りを通って歩いていたが。

それと授業にもよく出ていははずである、専門学部3年生の時は、2単位を残すのみであったのだから(これは半年間毎週1度だけ授業に出たら単位がとれてしまう量ということである)、ごく普通の学生と同様授業には出ていたということであろう。

ただほかの学生と異なるのは、付き合う相手が全くいなくなってしまったことだ。私はもともと一人でいることが好きであったし、そこはそれ夜になれば、ビールをたっぷり飲んで読書にふけっていたからある程度それでストレスはおさまっていたはずである。

その当時の知り合いはわんこ一匹であった、ビールを買いにコンビニに行くと週の坂道で犬を飼っていたお宅があったのであるが、そのお宅の塀の一部、ちょうど人間の顔見とおせる部分にだけ、15センチ×20センチくらいの窓が開けてあり、わんこが塀の中から通る人を見られるようになっていた。私はその前を通るたび、わんこをなぜてやり、彼も私になついてくれていた。
このわんこが私のたった一人の友人だったのである。

しかしいつまでもこの生活が続けられるわけはないことも分かっていた。大学は卒業するつもりであったし単位も順調に集めていた。そうすると就職である。

父は小さな修理工場を所有していたが、それは同族会社間の争いで、その会社に追いやられていたみたいな感じであって、私が後を継げるというものではなかった。
事実、私が司法試験に合格する前、つぶされてしまい、父は行き場所を失っていた。
それでも父が私に仕送りができたのは、父が祖父から譲り受けた土地を売却したからである。
売却当時は、バブルの真っ最中であったので、結構な金額にはなったらしい。
父は、そのお金で持って、弟が経営する獣医士医院の土地を買ってやるとともに、現在私が住んでいる小さな建売住宅を買い、残りのお金の一部を使って、最後まで仕送りをしてくれていたのである。

ともかく私には行き場がなかった。それはどんな会社でもいいとなればあったのであろうが、ここまで浪人・留年を繰り返した男にまともな職場はない。ふつうは先輩のひきなどで就職先が決まるのであろうが、私には先輩はともかく相談する友人もなかった。

ビールだけを飲んで気楽に教養学部時代の4年間を過ごした私にも、そろそろ尻に火がつき始めたこと自体は実感するようになっていったのである。
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スペルボーン(Spellborn)