指導担当の検事は、私と同い年であった。

彼は若くして司法試験に合格し、司法研修を経て、当時は人気のなかった検察官を目指した。
修習は金沢修習で、金沢の弁護士事務所の事務員の中で2番目に美しい(念のためこれは冗談である)という女性と結婚し、検察庁に入り、順調に出世し、出世コースの一つである修習生指導担当検事になったのである。
私から見ても有能で思いやりがあり今後とも出世確実という人物であった。

私は自分がまともな社会人、それも結構尊敬される社会人になったことについては純粋にうれしかったが、彼を見て、私は、もっと早く司法試験に合格していたら、出世コースにも乗れたかもしれないと思い知らされた。

とある神戸郊外の野球場で野球の試合があったさいであるが、免許はあるものの、酒のため運転はしていなかった私はとぼとぼ球場まで歩いていたときがある。すると後から車で来た指導担当検事に見つけられよう〇〇くん車に乗りなよと声をかけてもらった。
うれしかったが、もう同年輩の彼にはもはや及びもつかないのだと思いで悲しくなったのも事実である。

司法試験に合格したからと言って当然に、裁判官や検察官になれるわけではない。
裁判所ないし検察庁からお声がかかって、どうだうちにきてみないかという勧誘があるわけである。
年配の私には、お声はかからなかった。
ただひとつだけ、検察修習の時に、検察事務官からある時、なあ〇っ〇ー(当時のあだ名)、お前検察官にならないかと言われたことがあった。このとき彼も私と同年齢であったが、俺、〇っ〇ーの下でなら働いてもいいで。と声をかけてくれたのである。嬉しかったが、もはや私の年齢では出世は限られているという思いから申し出を断った。

連続飲酒が始まる前であったので、惜しげもなく断ったのであるが、今から思えが、身分保障のある公務員になっておくべきであったとも思う。
でも当時はまだ逆転のある弁護士に可能性をかけたのである。

それから何年たったであろう。私は弁護士としてもアル中という烙印を押されることになったのである。

もう弁護士としても成功の可能性はないに等しい。
でも弁護士以外に生きてゆくすべも知らない私にとっては、これにしがみついていくしかない。

このブログは、何年も続けていくつもりである。そうして少しでも楽に生きられるようになっていればと、今は祈るしかない。

第一回閑話休題はここにて終了。
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# by kanta5988 | 2007-11-16 16:49 | 人生
私が司法試験に合格した時代は、試験合格後、2年間の司法修習を受けなければならなかった。
2年間の前半4ヶ月が、東京湯島にある最高裁判所司法研修所にて、座学にての勉学、その後全国各地の裁判所に分散されて、それぞれ4ヶ月づつ、民事裁判、刑事裁判、検事、弁護士の実務修習があった。
1年4ヶ月の実務修習をおえて再び司法研修所にて、まとめの学習、そして最後に一般的に2回試験と呼ばれる(2回目というのは、司法試験が一度目で実務家になるためのもう一度の試験という意味で2回試験と呼ばれている)試験を受けてそれに合格すれば一人前であった。
私が司法修習生時代であった頃はまた改めて語ることとなるであろうが、今日は、別の観点から当時の私について話してみようと思う。
私は、神戸に配転されたが、神戸での修習は、弁護、民栽、刑栽、検事の順であった。
弁護修習は各弁護士事務所に2名づつ、裁判修習は、各部に3名づつ、そして検察修習は、大部屋で9名で修習である。2回試験において最も勉強量を要するのが民栽であるから実務修習の最後が民栽であることが望ましく、検察修習は大勢の仲間と一緒にいられるので、みんなが仲良くなるには一番の機会であった。だから検察修習が最初であるのが望ましかった。
それが私の場合、弁護の次に民栽があり、最後が検察修習であった。
多少不利な割り振りである。
それでも検察修習は楽しかった。修習生室は法務合同庁舎の3階にあり、その隣に修習指導担当検事の部屋があった。担当検事の部屋の冷蔵庫にはビールがふんだんに置かれており、その隣のロッカーにはおつまみの乾き物が多量に置かれていた。
それで私は、猛烈に働き、午後5時には仕事を終わらせるようにして、5時と同時にビールの栓をあけ、一杯飲み始め、同期の仲間の仕事をひやかしていたのである。
6,7時になるとみんなそれぞれ割り当ての仕事を終え、指導担当検事の部屋に集まって、ビールを飲むこととなる。当然その頃にはおなかがすくので近くの中華料理屋からおつまみの出前を取る。それらすべては指導担当検事のおごりであった。
ちなみに裁判官室には冷蔵庫などない。当然仕事が終わったからと言ってビールなど飲めない。それに裁判官は付き合いが悪い。仕事帰りにおごってくれることなどまず全くないと言って良い。
それに対して検察庁はおおらかである。検事室には冷蔵庫が置いてあることがあり、ビールくらいは飲めるのである。

そうそうここで話したいのは、そんなことではない。
それは修習指導担当検事と私との比較のことである。
私は、1浪し、大学も7年かかって卒業し、そのあともプータローないしはニートとしてすごし、やっとのことで司法試験に受かった人間である。
司法試験に受かり、司法研修所から給料をもらい、一般の社会人と呼べるようになったのは、すでに30歳を超えていたのである。

ここまで私を堕落させたのはもちろんアルコールである。
でもまだ修習時代には私には自分にアルコール問題があるとは分かっていなかった。
ただ、同世代に比べて極めて出遅れたのは事実である。
それを思い知らされたのは検察修習が初めである。
つづく
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# by kanta5988 | 2007-11-15 14:02 | 人生
明け方4時までウイスキーを飲みながら日本史の復習をしていたわりには元気に試験会場につけたと思う。

試験開始時間は覚えていないが、9時か10字頃度はなかったであろうか。3科目全部の問題を渡されて、その中から回答していくと言うものであったと思う。
解答を始めた順番は良く覚えていないが、英語を最後に回したのは確かである。

問題内容はもはや記憶にはないが、日本史では日本最初の天皇の名前を聞かれたことを覚えている。戦前の尋常高等小学校では天皇の名を初代から暗記させられたということを聞いたことがあるが、私は天皇の名など覚えていない。今現在の天皇の名前も知らないくらいである。
悩んだ末、ふと出てきたのが神武という名前である。「神」に「武」なんて初代の名としてはなかなか良いではないかと思った。そこで神武天皇と書いた。正解である。次に覚えているのは数学で三角形一般の面積か何かを解答させる問題である。高校生の時にはその解法を覚えていたが、それはもはや一年前のことである。すっかり記憶から消えていた。悩んだ末、正三角形も三角形のひとつなんだから問題を正三角形に置き換えて計算すればよいではないかと思い、図を描いて計算して答えを出した。正解に至るまでの式の展開を書かなければいけないような問題だったらお手上げだったのであるが、問題文では解だけを枠内に記載すればよかったのでそれもクリアした。酒びたりの浪人生にしては結構頭が回ったのである。

そうして問題文に取り組んでいたのであるが、明け方まで飲んでいた酒が途中で切れてきた。
だんだんと気分が悪くなっていき二日酔い状態へと試験中に移行して行ったのである。
おまけに座った席が、教室の端で、私の隣においてあるオイルヒーターの熱気が私にまともに当たってくる。もあ~とした熱気で、吐きそうになってきた。
でもその場から逃げ出すわけには行かない。私には後がないのである。
我慢しつつ、問題を解いていった。しかし日本史と数学を解くのに意外と時間がかかってしまっていた。最後の英語に残された時間は40分くらいである。
もはや問題をゆっくり読んでいって解答している暇などない。
設問の冒頭にある英文をざっと読み、選択肢にある英文をこれまた流し読んで、その場で回答である。正解か否かのチェックをしている時間はなかった。
ここで役に立ったのが予備校の夏季特訓であった。
なんとか英文の意味を推察しながら、回答へと辿りついていけたと思う。
もはやこうなると二日酔いも何もなかった。
時間ぎりぎりに最後の問題を解き終わった。

あとは合格発表を待つだけである。
その後どうやって、京都に帰ったのかは覚えていない。

新幹線で京都または神戸に帰ったはずであるが、その時ビールを飲んだか否かは覚えていないがさすがに当時は新幹線の中でさえもビールは飲まなかったはずである。
大学時代以降はあまりに次々とビールを飲むので近くの人にあきれられた目をされた私であったが、まだ当時はうぶだったのである。 
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昼前に起き、昼間は本屋を散策、夕方からはビールを飲みつつ本を読むという習慣が始まった。
その習慣は9月頃から12月頃まで続いた。
勉強はまったくしないままである。

ところで私が浪人した時期から大学共通一次試験が始まった。
それまでは大学が独自の出題をしていたのであるが、まず共通1次試験を受けて、その成績で、大学が受験できるかどうかになったのである。
確か5科目くらいは受験しないといけなくなったはずである。

飲んだくれていた私にとっては、どう考えても後、1ヶ月か2ヶ月ですべての教科の準備をする余裕がない。

そこで国立大学は、諦めることとした。
私大の受験なら、3科目くらいで受験できる。
3科目なら、一か月もあればなんとか回せるはずである。
そこで私は私大受験に的を絞ることとした。
さすがに2浪は厭だったからである。

目標としたのは、同志社大学法学部政治学科、早稲田大学政経学部、慶應義塾大学法学部政治学科、そして中央大学法学部政治学科の4校である。

なぜ政治学科にこだわったかについては覚えていない。ただ当時は政治学を学びたかったのである。

同志社については鮮やかに不合格であった、早稲田については答案を書きながらここはだめだなと思った。中央大学については、受かってもあまり行きたくない気がしたので、申し込みはしたものの試験当日は休んでしまった。
残るは慶應だけである。
受験科目は、数学と英語と日本史であった。

受験に際しては、港区高輪にあるホテルを利用した。
歩いて受験会場である三田に行けるところであった。

ただ記憶にあるだけだが、夕食はホテル内にある寿司屋に入った。
ここで生まれて初めて生の蛸の握りを食べた。
お酒はこのときは飲んでいない。

その後、部屋に帰って、外で買ってきたビールを飲み始めた。
それで最後に勉強をして合格の可能性が高まるのは何であろうかと考え、結局、暗記勝負の日本史であろうと考えた。
私は最初はビールを飲み、ビールが無くなると、これまた外で買ってきたウイスキーのハーフボトルを飲みだした。
日本史の勉強は、明け方の4時まで続いた。
さすがにこのころには、ウイスキーの瓶も空になり、眠気も襲ってきたので、試験までの間若干寝ることにしたのである。

朝7時ころ起きだし、朝食をとり、受験会場である慶應の三田キャンパスに向かった。
つづく
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前回、私が受験期に父が暴れたこと、受験不合格が決まった後に、私を京都に行かせようとしたことを書いたが、書いていて、その間に何らかの因果関係があったのではないかと思うようになった。しかしもはや父は亡くなっている、このことについてはもはや質問できない。ただ京都に行くことになったのが、私が若くしてアル中になった一助であることは間違いがないと思う。

友人は、我がマンションに一泊するつもりでやってきた。
昼間はどこでどうしていたのにかについては全く記憶がないが、外が暗くなって、酒を飲もうかという話になったと思う。
最初はビールであった。私のマンションの道路を隔てた斜め向かいにビールの自販機が置いてあった。たぶんここで買ったのではないかと思う。
ビールを飲んで気を良くした私たちは、近所の酒屋でウイスキーを購入した。
ウイスキーをどうやって飲んだのかは覚えていない。ストレートで飲んだのかもしれない。
ともかく私は、これまでからかけ離れた量のアルコールを摂取した。
飲んでいるとき覚えているのは、マンションのベランダから、「吐くぞ~」とさけんではいたことしか覚えていない。
覚醒したのは翌日の朝である。
私は吐しゃ物がこびりついたベッドの上で眠っており、部屋中には、こぼした醤油の奇妙なにおいが充満していた。
友人は私が起きる前に、起きたとのことであり、表を当てもなく徘徊した後帰ってきたとのことであった。
私を待っていたのはとんでもない二日酔いであった。友人は昼頃帰って行ったが、吐き気のおさまらない私は、近所の薬局まで薬を買いに行った。
その薬を買いに行く帰り、お姉さんが私に寄ってきて、万病に効く水を買わないかと言われた記憶がある。よほど私は他人から見てぼろぼろの状態であったのであろう。
だが若いというのは素晴らしいことである。
夜になる頃には、私は二日酔いの状態から脱していた。

それで、多分、多分当日であろうが、私はマンションの斜め向かいの自販機からビールを買った飲んだのである。
量はロング缶3本、1、5キロリットルである。
ビールは二日酔いの不快感を吹き飛ばしてくれた。
この日からである、私は毎日ロング缶3本を買いに行くようになった。
ビールは、受験という現実から私を引き離してくれたし、なんとかなるという気を引き起こしてくれた。

その結果、9月頃からは、予備校にもいかなくなり、夜はビールを飲み、昼近くまで寝て、起きだした後、本屋に行き、本を買って、読むという私の人生の前半期の生活がこのころ確立されたのである。
当時気に入った本は半村了の妖星伝であった。こんな面白い小説があったのかと思ったくらいである。
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中学校、高校生の時は、それなりに快適な生活を送っていたと思う。小学生の時には、父と母のけんかに対してはどうしようもなかったが、父より身長は低いものの、体力が付いてきたため、けんかになれば、父を抑え込めるようになった。父もどういうわけか弟より私の方を上に見ており、尊重する姿勢を示すようになってきた。
私は対外的には大した存在ではないが、家の中では、アル中の父親に苦しめられるばかりの存在ではなくなってきていた。
そうしたところで、大学受験となったのである。
よくは覚えていないが、父は私の受験が近づくにつれ飲酒量が増え、暴れるようになり私には受験どころではなくなった。
ただ前述したように現役での合格は期待していなかったので周りより本人はあまり気にしていなかった。
で、不合格、そうしたところ父が京都への下宿の話を持ちかけてきたのである。
自由になれることは魅力的であった。
それに当時は私も勉強しようという気もあったのである。父のもとを離れられることそれはそれは望ましいことであった。
下宿先は、京都市左京区白川通ぞいの小さなワンルームマンションであった。
哲学の道や銀閣寺の近くである。
下宿してしばらくは予備校に律儀に通っていたと思う。
でも私の記憶では、7月頃には、友達もできていたのですが、予備校通いをさぼりだしたように思う。
予備校の女性職員に、さばっていることを親に通知しないですよね、と冗談めかして尋ねたことを覚えているからでいる。
それでも8月には夏休みの特別授業を受けていた。中でも英語の授業のうち本を一冊読むというものがあり、その量から予習は到底出来ず、頭から英語を読んでいく習慣が身についたと思う。この習慣がなければ、次年度の私の大学合格はなかったと思う。
私の誕生日は8月8日である。
それでたぶん予備校の夏季特訓が行われている間に、19歳になったはずである。
その頃のことである、私と同様というか、私が浪人すると言ったのに誘われて、浪人生となった、中学から高校にかけての友人が私のマンションに訪ねてきた。
私は高校生の頃はかんたろうの散歩にかこつけてウイスキーを買っていたのであるが、浪人してからは酒を飲んでいなかったと思う。
それが、この友人の来訪をきっかけにして毎日飲酒することになったのである。
つづく

なおこのブログは、私の恥ずかしい生き方を話すことになるので、今のところ2名の知人にしかURLを知らせていない。
にもかかわらずブログという形式で自叙伝を書いているのは、過去を公開しても恥ずかしくないと言えるレベルまで自己研鑽を行いたいと思っているからである。
「アルコール依存症に向けて」の章が終われば、「司法試験を目指して」という章が始まり、その後、時間を飛ばして、現在の自分を語っていき、それに自信が持てれば一般に公開する予定である。
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小学校5,6年生の時、父は岡山へ単身赴任、母と私たち兄弟は、箕面市で暮らすという生活があった。4年生の時に私たち家族は大阪市東住吉区から岡山市に転居したのであるが、私たちが岡山に暮らしていたのは1年間のみで、5年生から私たち母子は箕面に転居したのである。建前上の理由は私たちの受験のためということであったが、それならわざわざ箕面の田舎(箕面市の方ごめんなさい)に行く必要はない、父は悪く言えば浮気、よくいえば独身生活を楽しみたかったのである。
岡山での生活は楽しかった。岡山市といえども周りは一面稲田やいぐさの田んぼで、子どもたちは地区ごとに小学校1年生から6年生までみんな一緒になって遊んでいた。私たちが引っ越しした当日、近くの◎◎君が、私たちの家の前まで走ってきて、「みんなで一緒に学校行こうのう」と叫んで、そのあと走り去って行ったことから分かってもらえると思う。私たちの地区の小学生は、一緒に遊べる仲間が増えることを喜び私たち兄弟を最初の日から受け入れてくれたのである。小学校4年生の時は、大勢の友達と一緒になって遊べ、非常に楽しい時期であった。
ただ岡山でも、楽しいのは夕刻まで、父が家に帰ってくるとその楽しみは終わった(家にいると前の道を通って駐車場にはいる車の振動音で、父が帰ってきたことがわかり、胃が固くなったものである)。私たちは彼がくつろいで酒を飲むのに邪魔な存在だったのであり、私たちにとってはうるさいアル中のお帰りなのであったのである。
そのため、父が単身赴任という形をとった小学校、5年生から6年生のころは天国であった。
昼間は友達たちと遊び帰ってきてもうるさいことをいう父は存在しなかったからである。
 中学1年生の1学期の中頃、父は私たちのもとに戻ってきて、私たちは、神戸市灘区に引っ越しをすることとなった。私は神戸市須磨区の生れであるから、生まれ故郷の神戸市に再び戻ってきたのである。
 土地は、父の祖父が父に譲ったもので約100坪ほどあったが、金のない父には小さなプレハブしか建てられず、私たちはその家で暮らすこととなった。
 その頃のことである、私が中学1年生か2年生の頃、私が散歩用の犬が欲しいといったところ、父が岡山時代に知り合ったブリーダーから、柴犬を取り寄せてくれた。
岡山から神戸の三宮まで木箱に入って送られてきた犬は、とてもかわいくて、私は彼に敢太郎という名をなずけた。今の私のハンドルネームの「かんた」は、彼から頂いたものである。
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 高校卒業までは、積極的に何をするということもなく、時が流れて行った。もちろん楽しい思い出も記憶深い思い出もたくさんあるが、それは今回はパスしようと思う。いずれ機会があれは書くであろう。
 高3半ばとなれば、次は大学進学である。どこへ進学するかということであるが、私は京大に行きたいと思った。東大というのはなんとなくイメージ的に好きでなかったし、私の学力では簡単に合格しそうもないと思ったからである。
 京大に行くという意思は固まったが、いかんせん受験に通るだけの学力が必要である。その時の私の偏差値ではちょっと無理そうであった。でも自分的には何の勉強もしていないのであるし、1年浪人でもして勉強に専念すれば、京大位は合格できるように思えた。
で、高校最後の時期はどうせ浪人するのだからと、勉学に力を入れることはなかったのである。
もう良く覚えていないのであるが、高3の時、京大を受験したと思う。もちろん不合格。でも私にとっては当たり前のことで、何の感慨もなかった。京大を受験したという記憶すらないくらいである。
両親には予め浪人して京大を受験するということは伝えてあったと思う。
私自身は、どこの予備校に行こうという気もなかった。
そんなとき、父が、京都に行って、京都の駿台に通ったらどうかと言いだしたのである。
私は、浪人生の身で下宿する気もなかったし、その辺の予備校でまともに勉強すれが、京大に合格するくらいの実力は付くと思っていた。
そうしたとこと下宿である。私には魅力的であった。私の父は私と同様アル中で、私の受験期には荒れまくっていて、受験のため、叔父さんの家に泊まって受験に行ったこともあるからである。アル中の親父から離れられるということは私にとってそれは魅力的であったのである。
でも、これが私が若くしてアル中への道と歩む第一歩だったとの当時は思ってもいなかった。
つづく
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私は、子供の頃、勉強はできたが、運動は苦手であった。
運動が苦手になった原因は私なりに考えるところはあるが、ここでは述べない。
勉強に関しては特に塾に行くなり、自宅で勉強をするなりしなくても、学校で授業を聞くだけでトップクラスの成績はとっていた。ただ自分から何かしようという積極性に欠けていたと思う。何の努力もしなくてもそれなりのいい子として見られ、それ以上のことをしようという積極性に欠けていたと思う。
中学までは、努力しなくても、トップクラスの成績を維持していたが、高校に入るとさすがに勉強をしないままではそこそこの成績しかとれなくなった。でも塾とかに申し込みはするものの、結局行くのをさぼってしまい、授業料の無駄遣いに終わっていた。
友達に誘われて地学部(もっぱら天体観測がその活動の主であった)に入ったが、活動は積極的でなく、合宿で天体観測という時も、私は写真撮影や凧あげをして遊んでいて、クラブ活動そのものについては全く積極ではなく、友人が持ってきたり私が親父のストックをかすめ取ったウイスキーを飲んで騒いでいた様な気がする。
思うだけで実際には行動に移さない。これが私の本質かもしれない。
ところがアルコールを飲むと、気分が大きくなり、何でも思うどおりになるような気がするのである。私にとってアルコールとはそうした飲料であった。
つづく
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 私がアル中(正式名称アルコール依存症)になったのはいつのころであろうか。
小学生の時にデパートの屋上のビアガーデンで、父から生ビールを飲ませてもらい、おいしいと思った記憶がある。そんな記憶があるところを見ると、冗談半分に父からビールを一口飲ませてもらっていたことがあるのだろう。
 中学生のころにはアルコールには無縁であった。
 高校生の頃になったころ、部活の合宿などで、ウイスキーやブランデーを口にするようになった。そのころから自分でも犬の散歩にかこつけて、自販機でトリスのポケット瓶を買うようになった。でもその頃は、ほんの少し飲むだけであり、それだけで恍惚感が得られた。
ほんの少し飲むだけであったが、あの頃の恍惚感は忘れられない。知らずにマスターベーションをしてしまい、そのあまりの快感に打ちのめされたような感じと似ている。
 それほどアルコールは私にとって自己開放感と恍惚感を伴う薬物であったのである。
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スペルボーン(Spellborn)