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アルコール依存症に向けて(19)

三田に移ったというものの、私の生活自体は、変化はなかった。
大きく変わったのは、散歩のルートぐらいであった。
以前は祐天寺から代官山、中目黒を通って渋谷に行くくらいであったが、
三田に引っ越ししてからは、三田から桜田通を辿って、桜田門から皇居に入り、竹橋のあたりに出て、神保町界隈の本屋を散策することが増えた。
時間にして、往復5,6時間以上歩いていただろう。
もちろん渋谷にも明治通りを通って歩いていたが。

それと授業にもよく出ていははずである、専門学部3年生の時は、2単位を残すのみであったのだから(これは半年間毎週1度だけ授業に出たら単位がとれてしまう量ということである)、ごく普通の学生と同様授業には出ていたということであろう。

ただほかの学生と異なるのは、付き合う相手が全くいなくなってしまったことだ。私はもともと一人でいることが好きであったし、そこはそれ夜になれば、ビールをたっぷり飲んで読書にふけっていたからある程度それでストレスはおさまっていたはずである。

その当時の知り合いはわんこ一匹であった、ビールを買いにコンビニに行くと週の坂道で犬を飼っていたお宅があったのであるが、そのお宅の塀の一部、ちょうど人間の顔見とおせる部分にだけ、15センチ×20センチくらいの窓が開けてあり、わんこが塀の中から通る人を見られるようになっていた。私はその前を通るたび、わんこをなぜてやり、彼も私になついてくれていた。
このわんこが私のたった一人の友人だったのである。

しかしいつまでもこの生活が続けられるわけはないことも分かっていた。大学は卒業するつもりであったし単位も順調に集めていた。そうすると就職である。

父は小さな修理工場を所有していたが、それは同族会社間の争いで、その会社に追いやられていたみたいな感じであって、私が後を継げるというものではなかった。
事実、私が司法試験に合格する前、つぶされてしまい、父は行き場所を失っていた。
それでも父が私に仕送りができたのは、父が祖父から譲り受けた土地を売却したからである。
売却当時は、バブルの真っ最中であったので、結構な金額にはなったらしい。
父は、そのお金で持って、弟が経営する獣医士医院の土地を買ってやるとともに、現在私が住んでいる小さな建売住宅を買い、残りのお金の一部を使って、最後まで仕送りをしてくれていたのである。

ともかく私には行き場がなかった。それはどんな会社でもいいとなればあったのであろうが、ここまで浪人・留年を繰り返した男にまともな職場はない。ふつうは先輩のひきなどで就職先が決まるのであろうが、私には先輩はともかく相談する友人もなかった。

ビールだけを飲んで気楽に教養学部時代の4年間を過ごした私にも、そろそろ尻に火がつき始めたこと自体は実感するようになっていったのである。
スペルボーン(Spellborn)