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中学校、高校生の時は、それなりに快適な生活を送っていたと思う。小学生の時には、父と母のけんかに対してはどうしようもなかったが、父より身長は低いものの、体力が付いてきたため、けんかになれば、父を抑え込めるようになった。父もどういうわけか弟より私の方を上に見ており、尊重する姿勢を示すようになってきた。
私は対外的には大した存在ではないが、家の中では、アル中の父親に苦しめられるばかりの存在ではなくなってきていた。
そうしたところで、大学受験となったのである。
よくは覚えていないが、父は私の受験が近づくにつれ飲酒量が増え、暴れるようになり私には受験どころではなくなった。
ただ前述したように現役での合格は期待していなかったので周りより本人はあまり気にしていなかった。
で、不合格、そうしたところ父が京都への下宿の話を持ちかけてきたのである。
自由になれることは魅力的であった。
それに当時は私も勉強しようという気もあったのである。父のもとを離れられることそれはそれは望ましいことであった。
下宿先は、京都市左京区白川通ぞいの小さなワンルームマンションであった。
哲学の道や銀閣寺の近くである。
下宿してしばらくは予備校に律儀に通っていたと思う。
でも私の記憶では、7月頃には、友達もできていたのですが、予備校通いをさぼりだしたように思う。
予備校の女性職員に、さばっていることを親に通知しないですよね、と冗談めかして尋ねたことを覚えているからでいる。
それでも8月には夏休みの特別授業を受けていた。中でも英語の授業のうち本を一冊読むというものがあり、その量から予習は到底出来ず、頭から英語を読んでいく習慣が身についたと思う。この習慣がなければ、次年度の私の大学合格はなかったと思う。
私の誕生日は8月8日である。
それでたぶん予備校の夏季特訓が行われている間に、19歳になったはずである。
その頃のことである、私と同様というか、私が浪人すると言ったのに誘われて、浪人生となった、中学から高校にかけての友人が私のマンションに訪ねてきた。
私は高校生の頃はかんたろうの散歩にかこつけてウイスキーを買っていたのであるが、浪人してからは酒を飲んでいなかったと思う。
それが、この友人の来訪をきっかけにして毎日飲酒することになったのである。
つづく

なおこのブログは、私の恥ずかしい生き方を話すことになるので、今のところ2名の知人にしかURLを知らせていない。
にもかかわらずブログという形式で自叙伝を書いているのは、過去を公開しても恥ずかしくないと言えるレベルまで自己研鑽を行いたいと思っているからである。
「アルコール依存症に向けて」の章が終われば、「司法試験を目指して」という章が始まり、その後、時間を飛ばして、現在の自分を語っていき、それに自信が持てれば一般に公開する予定である。
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小学校5,6年生の時、父は岡山へ単身赴任、母と私たち兄弟は、箕面市で暮らすという生活があった。4年生の時に私たち家族は大阪市東住吉区から岡山市に転居したのであるが、私たちが岡山に暮らしていたのは1年間のみで、5年生から私たち母子は箕面に転居したのである。建前上の理由は私たちの受験のためということであったが、それならわざわざ箕面の田舎(箕面市の方ごめんなさい)に行く必要はない、父は悪く言えば浮気、よくいえば独身生活を楽しみたかったのである。
岡山での生活は楽しかった。岡山市といえども周りは一面稲田やいぐさの田んぼで、子どもたちは地区ごとに小学校1年生から6年生までみんな一緒になって遊んでいた。私たちが引っ越しした当日、近くの◎◎君が、私たちの家の前まで走ってきて、「みんなで一緒に学校行こうのう」と叫んで、そのあと走り去って行ったことから分かってもらえると思う。私たちの地区の小学生は、一緒に遊べる仲間が増えることを喜び私たち兄弟を最初の日から受け入れてくれたのである。小学校4年生の時は、大勢の友達と一緒になって遊べ、非常に楽しい時期であった。
ただ岡山でも、楽しいのは夕刻まで、父が家に帰ってくるとその楽しみは終わった(家にいると前の道を通って駐車場にはいる車の振動音で、父が帰ってきたことがわかり、胃が固くなったものである)。私たちは彼がくつろいで酒を飲むのに邪魔な存在だったのであり、私たちにとってはうるさいアル中のお帰りなのであったのである。
そのため、父が単身赴任という形をとった小学校、5年生から6年生のころは天国であった。
昼間は友達たちと遊び帰ってきてもうるさいことをいう父は存在しなかったからである。
 中学1年生の1学期の中頃、父は私たちのもとに戻ってきて、私たちは、神戸市灘区に引っ越しをすることとなった。私は神戸市須磨区の生れであるから、生まれ故郷の神戸市に再び戻ってきたのである。
 土地は、父の祖父が父に譲ったもので約100坪ほどあったが、金のない父には小さなプレハブしか建てられず、私たちはその家で暮らすこととなった。
 その頃のことである、私が中学1年生か2年生の頃、私が散歩用の犬が欲しいといったところ、父が岡山時代に知り合ったブリーダーから、柴犬を取り寄せてくれた。
岡山から神戸の三宮まで木箱に入って送られてきた犬は、とてもかわいくて、私は彼に敢太郎という名をなずけた。今の私のハンドルネームの「かんた」は、彼から頂いたものである。
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 高校卒業までは、積極的に何をするということもなく、時が流れて行った。もちろん楽しい思い出も記憶深い思い出もたくさんあるが、それは今回はパスしようと思う。いずれ機会があれは書くであろう。
 高3半ばとなれば、次は大学進学である。どこへ進学するかということであるが、私は京大に行きたいと思った。東大というのはなんとなくイメージ的に好きでなかったし、私の学力では簡単に合格しそうもないと思ったからである。
 京大に行くという意思は固まったが、いかんせん受験に通るだけの学力が必要である。その時の私の偏差値ではちょっと無理そうであった。でも自分的には何の勉強もしていないのであるし、1年浪人でもして勉強に専念すれば、京大位は合格できるように思えた。
で、高校最後の時期はどうせ浪人するのだからと、勉学に力を入れることはなかったのである。
もう良く覚えていないのであるが、高3の時、京大を受験したと思う。もちろん不合格。でも私にとっては当たり前のことで、何の感慨もなかった。京大を受験したという記憶すらないくらいである。
両親には予め浪人して京大を受験するということは伝えてあったと思う。
私自身は、どこの予備校に行こうという気もなかった。
そんなとき、父が、京都に行って、京都の駿台に通ったらどうかと言いだしたのである。
私は、浪人生の身で下宿する気もなかったし、その辺の予備校でまともに勉強すれが、京大に合格するくらいの実力は付くと思っていた。
そうしたとこと下宿である。私には魅力的であった。私の父は私と同様アル中で、私の受験期には荒れまくっていて、受験のため、叔父さんの家に泊まって受験に行ったこともあるからである。アル中の親父から離れられるということは私にとってそれは魅力的であったのである。
でも、これが私が若くしてアル中への道と歩む第一歩だったとの当時は思ってもいなかった。
つづく
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スペルボーン(Spellborn)